キラリと光る会社
100年後の景色をつくる農業と、働く人が自慢にできる職場を

服部農園有限会社

名古屋中心部から車でわずか30分ほど。大口町にある農地全体の約三分の一を預かり、主に米を育てる服部農園。従業員は15名前後、うち正社員は11名。スローガンは「10年後、100年後、この町にこの景色を残したい」。露路野菜農家から始めて現在2代目で、「見よう見まね」だった時期を経て、次第に農地を増やし、法人化し、2014年に代替わり。息の合った夫妻と、高齢化とは無縁の若い従業員による服部農園は、自ら育てたお米と関連商品を販売し、おむすび屋さんを併設する「ハットリライスマーケット」も運営しています。
キラリと光る会社第50回は、服部農園 代表取締役の服部忠さんと女将の服部都史子さんのご夫妻に、お話をお聞きしました。

服部農園公式サイト

農業なんて大嫌いで、スカートはいたお母さんに憧れた

—服部家は、代々農家というわけではないのですね。

都史子さん:はい、違うんですよ。父が「百姓になる」と言い出して始めたんです。最初は露路野菜と、奈良漬に使われる瓜を中心に栽培していたそうです。母と結婚したころまとまった土地を借りて、私が小学生の時分までは茄子農家でした。

—では、都史子さんは農家の子として育ったんですね。

都史子さん:そうです。農家なんて大嫌いでした。週末とか夏休みとか関係ないのでどこにも連れて行ってもらえないし、軽トラで学校に迎えに来られるのが恥ずかしかったし。会社員の、出張とかあるお父さんと、スカートはいてホットケーキ焼いてくれるお母さんに憧れてました。

—リカちゃん人形的な家庭への憧れですかね(笑)。

都史子さん:そうそう。キラキラに見えた都会への憧れから、私自身、服飾の道を選びました。ところが1995年に父が脳内出血で倒れて。私は二人姉妹の妹なのですが、姉は結納を済ませたばかりで手伝える状況ではなく、かといって母だけで農業をやるのはとても無理。田植ができなければ無収入になってしまいます。結局、私が、未練を残したまま服飾の世界を後にせざるをえなかった。農業なんかを家業にした「お父さんのせい」という、不本意な気持ちはしばらく消えませんでした。

—そのとき忠さんは?

忠さん:女将とは当時つきあい始めたばかりでしたけど、服部家には「娘の彼氏は田植えを手伝うこと」という鉄の掟があったので、手伝うことは決まっていました。内装業をしてましたが、まだ二十代前半でしたし、結婚の話もまったく出ていなかったんです。でも大変そうなので内装のほうの親方に事情を話したら、「手伝ってやれ」と、1ヶ月の休みをくれたんです。元々アウトドアが好きだったのもあって、外で働く農業が性に合っていたのか、開放的で気持ちがよく、おもしろいと思いました。田植えだけじゃわからないから、一年を通してやってみたいと思うようになったのと、ここの人手不足を近所の人とかに助けてもらうばかりなのもどうかと思い、結局転職したんです。

—そうだったんですか。内装の親方にはがっかりされませんでしたか。

忠さん:快く送り出してくれたんです。親方も彼女のことを知っていたのもありますが、すごくいい人でした。

都史子さん:父は、半年の入院のあとリハビリが必要になりました。私はずっとつききりで、その間、忠(ちゅう)さんと母が二人で農業をやってました。農業のことをわかるのは母だけでしたけど、トラクターには乗れないので彼が。3年間くらいは、記憶が飛ぶほどに、ただ必死でやってましたね。

忠さん:僕は、見よう見まねでやっているうち、だんだんとペースをつかめてきて。米を収穫すると麦を蒔くんですけど、冬は空くので山にこもってスノーボード三昧だったんですよね。仲間ができるじゃないですか。春になり山を下りるスノーボード仲間を農園にスカウトして、バイトとして手伝ってもらうサイクルもできました。彼らにとっては短期集中のちょっといいバイトなんですよ。紹介の紹介で途切れることなくバイトの子に恵まれました。そうした中から、正社員になる人も出てきました。若いので、ワイワイ楽しくやっていました。

服部都史子さんと忠さんのご夫妻

「ウェ〜イ!」のノリを改めて

—大変かと思いきや、忠さんは楽しげです(笑)。

忠さん:それが、社長になったとたんに、楽しくなくなったんです。僕らが結婚する前年に法人化して、翌2000年に結婚しました。その後、高齢で農家をやめる人の農地を引き受けたりしながら借りる農地を増やして、2014年には僕が後継者として社長になりました。その2014年に、米価が大暴落したんです。市場全体のことでしたけど、ちょうど米の出来も上々で楽しみにしていたのに赤字になって。ずっと僕らの一生懸命と利益が比例していて、“経営”を意識もせずにやってきたもので、「なんだこれ?」と思いました。

都史子さん:それまでは規模拡大を進めるのがこの世界の正解とされていて、疑うことなく邁進すれば結果もついてきていました。それが、このままじゃ潰れるというところまで打撃を受けて。6人の正社員の雇用もありましたし、地主さんはじめ地域の人たちへの責任もありますから、やめるわけにもいかない。私は、実家が落ち着いたころに以前の仕事にいったん戻って、忠さんが社長になるのをきっかけに家業に復帰してました。この大きな危機を前にして、体が動き出したんです。信頼している人のアドバイスもあって、経営を学ぶために研修会に参加して、得たものを社内のメンバーにフィードバックしたり、金融機関と交渉したり、奔走し始めました。

—女将の登場ですね。

都史子さん:経営を回復させるために投資する、お金という原資がないのですから、ここにいる人の能力を上げて、収量を増やしたり、高く売ることに挑戦する以外にないと思ったんです。それまでだって一生懸命働いてくれてはいましたけど、仲良しの草野球チーム的な感じで、みんな茶髪にヒゲの「ウェ〜イ!」ってノリの人たちでした。農協に一括して納める、一般的にいうところの下請けだったので、それで良かったんです。でも、そういった従来の農家のやり方では価格ひとつ自分たちで決められない。では、自分たちで売り先を見つけて交渉して、としようとしたときに、「ウェ〜イ」のままでいいのかと。

忠さん:僕自身がまさにそれだったんです。「ウェ〜イ」ですよ。高校中退してましたし、経営を学ぶなんて、「え?勉強??」って感じで。ところが女将がある日、朝礼のときに本の「音読をして」って、僕らに一冊ずつ回すんです。一人ひとり、発表するみたく読ませるの。みんな、漢字のところで止まる(笑)。

都史子さん:みんな嫌がってましたよ。でも、「やる?」とお伺いを立てるでなく、「やるよ」と。

—強い(笑)。

忠さん:農作業だけしかしてなかったので、最初は「は?」と思ってました。でもだんだん、音読ひとつにも成長みたいなものを感じ取れるようになってきたんですよ。わからないところを尋ね合ってコミュニケーションが生まれたり、漢字が読めるようになったり(笑)。勉強ってものを投げ出して生きてきたけど、やれば手応えがあるという感覚がわかってきた。MG研修っていう経営の勉強会に参加したら、「経営って、なんだこれ?」と思っていたことが、少しずつわかってきました。

—それは大きな意識改革ですね!都史子さんの担った役割が大きかった。

都史子さん:私はずっと、家業に自分の居場所を見い出せずにいたんです。危機に直面したのをきっかけに、営業したり交渉したり、そういうところを担えばいいんだとわかったんですね。で、このときもそうでしたし、コロナのときも、私はお金のことばかり考えてました。

—お金のことばかり。

都史子さん:農業独特の、「農家払い」っていうのがあるんですよ。農機具や肥料、農薬とかの支払いを、農作物を収穫して得られたお金で一気に支払うやり方です。米価が大暴落した2014年にそれをやったら残ったのが900万円だったんですよ、人も雇っているのに。実家を担保にしてお金を借りたりもしましたし、この人は小さい男だから、どんだけ借り入れがあるかなんて知ったら死んじゃうか逃げ出すと思って(笑)、以来、お金のことは私が一手に引き受けてました。

—死んじゃうか逃げ出す…(笑)。

忠さん:はい(笑)。

2015年の田植え後に撮った一枚。この後入社した新入社員が写真を見て、「海賊ですか」と言ったとか(笑)。

GPS付きの田植機の導入で、職歴が浅くても真っすぐ植えることができるようになり、現在田植えのオペレーションにつくのは入社1~3年目の職員さん。

「農家払い」「年貢」。知られざる農業の世界

—「農家払い」というのも初めて知りましたが、先ほどもお話に出た、従来の農協を介した販売だと、自分たちで値段が決められないとか、農業も、身近なようで知られていないことが多いですよね。

都史子さん:自分で決められないどころか、原価度外視の値段をつけられたりしますからね。あと、あまり知られていないことでいうと、私たちもですが、農地を借りてお米を作りますよね、その地代を米で払う「年貢」という習慣があるんですよ。

—年貢!

都史子さん:はい。でもここのように都市部に近いところでは特に最近は、私たちの側が農地を、いわゆる耕作放棄地にせずに管理しているという考え方から、年貢を納めるのではなく、言ってみれば管理をする代わりに無料で使わせてもらうケースが一般的になってきています。

—あぁ、なるほど。

都史子さん:服部農園もたくさんの地主さんから農地を借りているので、2014年に、自分たちで販売をしていこうと決めたタイミングで、地主さん全員に「あなたの田んぼでできたお米を買いませんか?」というハガキを出したんですね。みなさんお米は食べるだろうから、どうせなら普通に買うよりうれしいんじゃないかと思ってのことでした。そしたら父がすごく怒ったんですよ。「タダで借りてるのに、米まで売ろうだなんてあさましい!」って。

—あぁ、以前は年貢の習慣もあったし…。でも実際、買いたい方もいそうですよね。

都史子さん:はい。時代が違うのだからと、ここは自分たちの考え方で続けました。

—地主さんは、どれくらいの数いらっしゃるのですか。

都史子さん:服部農園が借りている土地全体でいうと、延べ1500くらいです。

—え!?1500、ですか?

都史子さん:割と、そういうものなんです(笑)。

—法人としてなさっているし、都会に近いところとしては大規模とお聞きしていましたけど、15名前後でやっていらっしゃるんですよね? 1500とは、想像を遥かに超えていました。これも、知られざる農業のあるある?

都史子さん:でしょうか。そういうこともあるので、「地元のために」という私たちの意識は自ずと高くなりますね。逆にうちのお米を、地元の応援になるから買おうと思ってくださる人も多いんです。「ハットリライスマーケット」も、地域の、子育て世代が子どもを連れて来店できるようにしたかったんですね。子どもが楽しめるようにできれば、単なる売り買いの場ではなく、お父さんお母さんにも、おじいちゃんおばあちゃんにも喜んでもらえる場になると思って。

—ご自分たちでいろいろと考えてやってこられたことが、服部農園の価値を高めたんですね。

都史子さん:農業って、公金で手厚く守られているところがあるので、甘んじてるとアホになるんですよ。苦しいときに自力を高めようと果敢に取り組んだ農家が、結局残ってる。

—アホとか(笑)言っちゃっていいんですか。

都史子さん:いいんですよ、もう(笑)。

「ハットリライスマーケット」には、子どものための遊び場や駄菓子コーナーも設けられている。

農業は、人の記憶に“いいもの”を残せる仕事

—都史子さんの中で、嫌いな農業をやらされたという思いは消えたのですか。

都史子さん:本格的に経営に取り組もうとする中で相談した方や、融資をお願いした金融機関の方に、過去の、両親がやっていたころの決算書をお見せしますよね。すると感心されたんです。コツコツと堅実にやっていたことが数字に現れていたようで。感謝の念と同時に、申し訳ない気持ちがわきました。わかってなかった自分が恥ずかしくなりました。

—それは、ご両親もお喜びでしょうね。少しお話が戻りますが、服部農園さんは、経営の中でも、社員教育に特に力を入れているのですよね。堅実にやってこられたけど、米価の暴落でピンチになって、人に投資する以外に道がなかったというのが始まりで、音読から着手して。

忠さん:音読は、信頼する方のアドバイスに従って女将が導入したんですけど、僕なんかは、努力すると見える景色が変わる実感が持てたんですよね。褒めてもらえるとうれしかったし、自分もまだ伸び代があるぞと思えた。そういうのをみんなにも味わってもらえたら、人生もっと豊かになるんじゃないかなと。

—かつては「ウェ〜イ!」だった人が…。

忠さん:そうそう(笑)。

都史子さん:この人、高校中退で、私はそこに問題意識はなかったんですけど、だんだん、地域のいろんな役職を任されるようになってくると、本人が気にするようになったんですね。あるとき高校に行きたいって言い出して。いや、さすがに毎日通われると仕事に支障が出るじゃないですか。でも本人の熱意がまさって、結局通信制を卒業したんです。在学中、私は、夫の保護者だったんですよ。まさかの父兄(笑)。でも、忠さんの、そういうところはすごいと思います。

—すごい。めちゃくちゃいいお話じゃないですか。

忠さん:一緒にやるなら学費出すぞって、社内で誘ったんですけどね、結局僕だけで(笑)。いや、勉強じゃなくて、仕事でも地域の活動でもなんでも、「服部農園の人ってできるよ」と見なされるとやる気出るじゃないですか。そうなりたいですよ。

都史子さん:この辺りでは同じバイトでも、スタバとか無印とかは、なんとなくステータスっぽいところがあるんですよ。服部農園も、そういう、自慢できるブランドであり職場にしたいですよね。

—あぁ、なるほど。我らの目には服部農園のほうがすでに魅力的に見えますが(笑)、社長になったとたんに楽しくなくなった農業は、忠さんにとっていまはどうですか。

忠さん:まだバイト時代に感じた独特の開放感は、いまも感じます。農業って、景色を含めて、子どものころに五感で感じたものを残せる仕事だと思うんですね。人の記憶にいいものを残せる仕事じゃないかなって。それに、働いている人が、自分の親や子どもに見せることができる仕事でもありますよね。自分らが作ったものをお中元にできたりするのも、いい点だと思います。

—ほら、とても素敵です。

都史子さん:学歴関係なく、いまは社長ですし、夢がありますよね。(宮中祭祀の)新嘗祭に呼んでいただいたこともあるんですよ。農家にならなかったら、そうはできない経験ですよね。

—そうですね。これからさらに、チャレンジしたいことはありますか。

都史子さん:いまうちは、大口町の農地の三分の一くらいをお借りしてるんですね。これを全部にしたいです。

—三分の一でも驚きなんですが、全部!

都史子さん:農業の担い手がいなくなっているし、飛び地よりまとまっていたほうが効率もいいし。

忠さん:イチゴの小さなハウスを持っているんですが、もう少し大きくして、まちの人に食べて喜んでもらいたいです。気候変動もあってお米や野菜が作りづらくなっている中で、いずれ柱のひとつにできればいいなと。それから、僕は自然が好きなので、生き物調査もできる農家になってみたいですね。

お米はもちろんのこと、地元の素材を中心にした具材にもこだわるおむすび数種は、イートインも可能。

おいしいお米づくりの秘訣を尋ねたところ、「お米というのは、ちゃんと作ればちゃんとおいしくなるんです」という回答だった。なにやら深い気がする。

イチオシ 服部農園のじまんの人 中間智哉さん

2015年入社。生産部 技術機械主任として、現場でオペレーション技術の指導と機械車両メンテナンスの指導を担っています。都史子さんが、「イケメンですよ!」とご紹介くださった中間さん、ニコニコ笑顔で現れました。調理師学校を出て、「農業をやりたい」と大口役場に相談に行った(ただし、振り返れば「イメージが先行してた」)際に服部農園を紹介されたのが入社のきっかけだそうです。海も山も好きなアウトドア派で趣味はSUPと登山。

農業は、やってみたら割と向いていた感じです。でもここまで続くとは思ってませんでした。辞めたいと思ったことは何度もあります。漠然と大手企業に憧れて、クロネコヤマトのドライバーになろうと思ったこともありました。その都度社長夫妻が励ましてくれて、結局残りました。ここでの仕事は、大変なときはすごく大変ですが、頑張り合える環境なのが大きいですね。自分一人で頑張るのはきついと思うので、みんなでゴールに向かっていけるのがいいです。ゴールしても、「やり切った!」ってなるときと、ヘロヘロのときと半々ですけど(笑)。じっとしていられないタイプなので、目の前のやらねばならないことを、とにかくちゃっとやってちゃっと終わらせる主義です。サボろうとは思いません。働き者だと思います(笑)。

編集後記

第32回の京丸園 » の鈴木夫妻によるご紹介先でした。女将の都史子さんは開口一番、「うちの夫婦は京丸園の鈴木夫婦の舎弟なんです」と(笑)。元気な農家つながりだと思って臨みましたが、元気な仲良し夫婦つながりでもありました。特に両者とも奥さまの明るさが際立っていて、都史子さんもまた、会社を照らす太陽さながらでした。一方の忠さん、内装業の親方が背中を押してくれり、何年も義母さまとお二人で働いたり、スノーボーダーをバイトにスカウトしたりと、どれもさらっとお話しされますが、全部結局、お人柄のなせるわざですよね。みんな忠さんのことが好きだったからでは?と思いました。いいお話でした。(2024年8月取材)

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