島根県隠岐郡海士町
海士(あま)町は、日本海に浮かぶ島根県隠岐諸島のうちのひとつで、人口約2,400人の島。歴史的には承久の乱で敗れ配流となった後鳥羽上皇が余生を過ごすこととなった島として知られています。本土からはフェリーで約3時間、かつては北海道夕張市と同じく財政再建団体になることさえ予測されていたというこの離島には、過去10年間で400人以上の移住者がやって来ました。その半数以上がIターン。アイデア溢れるIターン者が、全力で改革に取り組む町長はじめ役場と共に行ってきた数々の町おこしのための施策は、次第に全国に知れ渡るように。
キラリと光るまち第10回は、海士町の山内道雄町長にお話をお聞きしました。
かつては、財政再建団体に陥る手前だった
—「ないものはない」。町おこしの成功事例で注目される海士町ですが、危機的状況にあったのは、そう昔のことではないのですね。
山内町長:私が初当選したのは2002年。いわゆる平成の大合併が、間もなくピークを迎えようとするときでした。海士町の財政は危機的状態にあって、少子高齢化が進み、基幹産業の漁業や畜産業は元気がなくなるばかりで、黙っていてはさらに悪化するのは目に見えていました。後に財政再建団体となった北海道の夕張市と変わらない状況でしたから。
—海士町は合併することなくここまできたわけですが、このような離島にあって、なにが、今のように全国的に注目される自治体になることを可能にしたのでしょうか。
山内町長:三つあります。まず一つ目は、役場が本気を見せたことでしょうね。私の50%を筆頭に、町の幹部から一般職員まで給与カットを行ったでしょ。早期退職を募り、年功序列の仕組みも廃止しました。役場の職員はね。田舎では高給取りの部類なんです。「ぬくぬくやってんな」と思われてるものなんですよ。それがね、徹底したカットカットで2億円を捻出して、住民に本気が伝わったんです。その2億円を未来への投資として、子育て支援などに充てましたからね。
—住民の皆さんに本気が伝わって、空気が変わりましたか。
山内町長:変わりましたね。そうすると今度出てきたのが二つ目。Iターンの人たちが向こうからやって来てくれました。この離島に仕事を求めて来る人なんかいるわけもない。彼らは仕事をつくりに来たんです。初めはこちらも斜めに見てましたよ。だけど彼らもまた本気でした。
—本気同士が本気で力を出し合ったわけですね。
山内町長:そうです。よく言うでしょ。地域を元気にするのは「よそ者、若者、ばか者」だって。まさにそれですよ。いい意味で常識を覆すような力を持っていることがありますよね、彼らには。
—Iターン界のスターというのがいるのだとしたら、海士町にいらっしゃいますもんね。しかも複数。
山内町長:高学歴でスキルのある人たちですね。肝心なのは、彼らが「攻めている」こと。逆に、そういうマインドの人たちでないと、このような条件の厳しい土地で続きませんよね。ここで起業しようだなんて、既存のセオリーにとらわれていてはできることじゃないもの。
島の未来は自分たちの手で築く。
そのために、「儲け」を考える
—本当に。そして三つ目は…。
山内町長:三つ目は、2005年に第三セクター「ふるさと海士」を立ち上げて、5億円を投じてCASシステムを導入したことです。
—魚介の鮮度や食味を保ったまま冷凍して、出荷できる技術ですね。確かに海士町には素晴らしい海の幸がありますが、そのときの財政状況に鑑みると、導入の決断は背水の陣ですよね…。
山内町長:そうそう。議会では反対にもあいましたよ。金がかかりすぎるし、仮につくっても黒字にするのなんて無理だと言われた。だけどやった。結果、ここのところ5期連続で黒字です。白いかや、いわがきを首都圏に自信を持って届けられるようになりました。特に、いわがき「春香(はるか)」はブランド化して知名度を上げていっています。
—思い切ってリスクをとった結果、成功させたわけですが、そこは山内町長の決断力ですよね。
山内町長:トップというのは、決断と実行しかないんですよ。でもそれには覚悟がいるでしょ。危機感と覚悟ですよ。首長にそれがなければ議会にも職員にもない。だから住民にもない。そういうところが多いんですよ。自治の原点は「自分たちの地域は自分たちで守り、自分たちで切り開く」こと。海士町も財政再建団体一歩手前までいってましたけどね、どんなひどい状況だって、自分たちの手で再建するしかないの。そう思うと本気になるでしょう。それに、これからの行政には、「儲け」の言葉が必須。だからIターン促進にしても、単にお金を出すのではなく、彼らが活躍できる環境を整備する。要は住民が儲ける仕組みづくりを後押しする。うまくゆけば、将来の税収が増えるわけですから。
—明快ですね。
山内町長:そうですよ。トップがビビってちゃだめ。ビビらず、ひるまず、ぶれないこと。
町長もIターンJr.?
閉鎖的な島が、Iターン者により開かされた
—山内町長は最初からそのような覚悟がおありだったのですか。
山内町長:私の場合はね、両親が今でいうIターンだったの。だからよそ者です。こういう田舎の選挙では、必然的に、親戚が多い人が強いわけ。町議選なんてその典型で、昔から住んでて親戚が多い候補者が圧倒的に有利。私も町議を経て町長になっていますが、異例の勝利みたいなものだった。それだけ住民が変革を求めていたということですよね。で、就任しても議会ではほぼ全員が反対勢力ですよ。就任式は人生で一番緊張しましたね。そんな中で、ビビってたらなんにも仕事ができませんからね。
—自ずと腹が据わる状況というか…。
山内町長:そう。行政上がりの首長の悪い癖は、昨日までの同僚を部下にできないところにあるんです。日本人特有のというか、気を遣っちゃう。でもそんなじゃどうしようもない。ビビらず、ひるまず、ぶれず、結論を出したことは通す。一度決裁したら、部下の責任は自分の責任!そうやっていたら、ついてきてくれるようになるものです。うちも課長クラスの職員が頑張ってくれました。給与が安くても、やっぱり地元を愛してるんですね。頼れる連中に恵まれていますよ。
—最初におっしゃっていた、「本気」というのが、だんだんわかってきました。
山内町長:元気・やる気・本気。全部大事ですけどね、最後にものをいうのは「本気」ですよ。地方はどこでもありがちですが、補助金もらって引き算ばっかりしてるの。自分たちで知恵を出さずにコンサルに依頼したりね、地方は大変だから助けてくれっておねだり体質。でもね、離島だから不利でダメだと言ってたって変わるものじゃないでしょ。離島だからどうするかを本気で考える。そのためにIターンは刺激になりました。
—「ないものはない」海士町であるために。
山内町長:そうですよ。「ないものはない」。なんにもありませんけどね、大事なものはみんなあるんです。水も米も塩も、そして人。そうはいってもちょっと前までは閉鎖的な島だったんですよ。開いてなんかなかった。開かされたんです。本気のIターンの力が勝ったの。彼らが気づかせてくれたものがたくさんあります。コンビニなんかあったら、もののありがたさがわからないでしょ。地域にこだわったコンセプトもない。地元も、それがわかってきたんですよ。
攻める島。だけど空気は“おんぼら”と?
—そうですか。Iターンに開かされましたか。でも、最初にお話にあったように、海士町の本気が、伝わったからこそ、人口の1割ものIターンや、やはり多くのUターンがやって来るという好循環が生まれたのでしょうね。
山内町長:そうですね。彼らと話をすると、行政の姿勢については評価してくれているようです。移住の動機のひとつにもなっているようですね。ほかに彼らを引きつけるのは、この島の空気が、こちらの言葉で“おんぼら”としてるところですかね。
—おんぼら?
山内町長:穏やかというか、おっとり、のんびりというか。そんな意味です。財政は厳しいんですけど、どこかおんぼらとしてますよね。あんまりあくせくしたところには、人は寄ってこないんじゃないかな。
—あぁ、雰囲気の伝わる、いい言葉ですね。
山内町長:そう。おんぼらとしたところが、やっぱりどこかほっとするんじゃないですかね。私はもう、IターンもUターンも、長く住んでる者も関係ないと思っています。ここに来たらここの者として、ここをふるさとのように思ってほしい。
—本気で改革に取り組む、攻めている島の印象が強かったですが、“おんぼら”の登場で、さらにうらやましいです(笑)。そんな海士町は、次になにをめざそうとされているのでしょうか。
山内町長:これまでも、やはり優秀なIターン者と共に進めてきていますが、海士町を教育の島にしたいんです。人づくりの島と言い換えてもいい。子どもから社会人まで、これからは教育に先行投資したい。図書館をハブにしたいと思っているんですよ。
—図書館を。
山内町長:司書のレベルを上げてね、コンシェルジュ的な存在になってもらって、ただ静かに読書をするだけの場所から脱却させるの。情報ライブラリーと言えばいいかな、交流の場にもなるような、活気ある場所にしたいんです。
—おお、それは言われてみれば新しい。
山内町長:活性化っていうのはね、惰性の仕組みを変えることですよ。
—おんぼらとしているそうですが、やっぱり攻めてますね(笑)。
1947年、海士町生まれ。代々続く農家で、自身も長く兼業で農業を営んできた。この土地の農業を守るため、2000年に、隠岐の島で初めての営農法人を立ち上げる。Iターン者の手で企画されるワークショップなどに積極的に協力し、農業の厳しさ、素晴らしさを伝えている。
私が若い頃は、島で生きてゆくことが今以上に厳しかった。高度経済成長期で、同級生のほとんどは都会に出ましたよ。出るのが当たり前だったからね、兄弟たちも出て行った。私だって出たかったけど、父親の具合が良くなくて、やむなく残ったんです。いい服着て帰省する人たちを見て羨ましく思ったもんですよ。日雇いの作業員やタクシー運転手を経て、行政の職員になった。でもずっと兼業で、自分たちの食べる分だけは畑でつくってきました。私はね、自分で食べるものくらいは自分でつくるのが本来の姿だと思ってるの。なんでも買える裕福な世の中になったけど、みんな、誰がどうやってつくったかわからないものを、遠くからお金かけて運んで来ては口にしてる。海士町は、本気でやれば農業、漁業で自給自足ができる島。先祖からもらったものを失くさない、減らさない、荒らさない。そのために、なんとか自分たちの農業が成り立って、後を継ぐ者が出てくるよう、今も挑戦しているところです。
向山さんが代表を務める、農業組合法人サンライズうづかは
こちら
編集後記
「やっと海士町に来た」そんな思いでした。それくらい、地域おこしで有名な島です。山内町長のお話にも出てきた、いわがきや隠岐牛のブランド化、独自のカリキュラムで学力と人間力の向上をはかる島前高校魅力化プロジェクト、Iターンのメンバーが持続可能な地域づくりをめざすベンチャー企業巡の環。もちろん、それらを支える人たちがなによりすごい。町長の言葉をお借りすれば、みんな「本気」だからこそ、困難でも、前進しているのでしょう。島に来るIターン者は、確かに高学歴で、大企業でバリバリやっていらしたような、優秀な人たちが多いようです。でもだからといって、スマートに、汗をかかずにやっているかというと、おそらく全然違います(そもそもそのようなやり方をめざすのであれば、田舎に移住なんてしないのでしょうが)。地方のどれもこれも、そんなふうで本当にどうにかなるものでは決してないと思います。
「じまんの人」向山さんの言葉のひとつ一つが、胸に響きました。気づいているのに後回しにしている宿題を見透かされるような気持ちにもなりました。その印象的な佇まいと、眼差しに、働く人の持つ手に、圧倒的なリアリティを見た気がします。(2014年10月取材)