岡山県英田群西粟倉村
兵庫県と鳥取県に接する人口約1,500人の村。平成の大合併で近隣の自治体がひとつの市になる流れの中で、自主独立の道を選び、過疎化高齢化に歯止めをかけるために知恵をしぼってきました。「百年の森林構想」を打ち出して、森林の活性化をまちの活性化にもつなげようと、「共有の森ファンド」により村外のファンがサポーターとして参加できる仕組みも構築。同時に、人と人とのこころのつながりに価値を求める生き方をテーマに掲げて、共感する移住者を積極的に迎えています。
キラリと光るまち第3回は、西粟倉村の青木秀樹村長にお話をお聞きしました。
私たちは、山と生きてゆく
—西粟倉は、「百年の森林」を中心にした町づくりに力を入れていますね。
青木村長:西粟倉の森林率は95%。そのほとんどが人工林です。そんなところは日本中にたくさんありますが、私たちは、山と生きてゆこう、活かしてゆこうと決めたんです。この村の50年、100年先を考えたとき、95%を考えに入れないわけにはいかないでしょう。ただ、手入れをしないと駄目になってしまう山を健全に保つためには、ずいぶんな財源をそこに充てないといけない。この時代なかなか覚悟がいることです。
—残念なことに、材として富を生まなくなった木は、多くの地域でむしろお荷物になってしまっています。
青木村長:私たち人間は、歴史上ずっと、山に頼って生きてきたんですよ。その山を昭和になって捨ててしまった。TPPで日本の農業の危機だといわれていますが、林業の場合ははるか昔に関税が撤廃され、安価な外材が入って壊滅状態になった。経済的価値をなくした山に、人が見向きもしなくなってしまいました。
—その森林を今、あえて復興させようと。
青木村長:西粟倉の山も、ご多分にもれず力を失っていました。だけど、一度健全になれば、可能性が出てくるのではないかと考えたのです。山は生態系の、平たく言うと命の源です。人間だって、そこに入って、深呼吸をしてみたくなる。寝転がってみたくなる。そうした価値を、西粟倉で育て、発信していくことができたなら、それがここで暮らす私たちの誇りにもなりうるのではないかと。
個性的なIターン者が集う
—西粟倉はまた、Iターン者によるユニークな活動で注目を浴びていますね。
青木村長:そうですね。今や西粟倉は彼らなしには語れないですね。山の豊かさに触れられるイベントや物販を行う「森の学校」がプラットフォームになって、外からの人が集うようになりました。おかげで、村が持っていた財産に、私たち自身が目を向けるようになった。彼らはまた、その財産を共に守っていく仲間にもなってくれました。
—財産というのは、先ほどおっしゃられた、命の源である山のことでしょうか。
青木村長:そこに連なる価値観を含めてですね。今は、この村が小さいことだって財産だと思います。平成の大合併は、古き良き日本の大きな損失だと私は思っています。西粟倉のような小さいところもなくてはいけない。むしろ小さくなかったらわからないこともあるんです。大きなところから考えることが、人を幸せにするとは限らない。国政を見ているとそう思いませんか?
—まさにそうした価値観を共有できる人たちが、Iターンして来るのでしょうね。
青木村長:そうだと思います。やっぱりここと都会じゃ違いますからね。例えば、西粟倉の人は、200軒、300軒の家とつき合いがあります。都会ではどうですか?ありえないでしょう。ここでは当たり前ですが、都会の人はみんな驚きますね。田舎というのは人間関係が濃いので疲れますよ(笑)。だけど、ほっとするんです。そんなことを含めて、「ここで暮らす意味を問いかけていこうよ」と、私はいつも言っています。
人もモノも少ないけど、
これくらいでちょうどいい
—都会は、あふれるモノや情報の中から自分に本当に必要なものを選ぶだけでも忙しい。その陰で希薄になっているものが、本当は大事だったりするのかもしれませんね。
青木村長:そうそう。社会はどんどんシンプルでなくなってきているでしょう。情報も大量だから、こんな小さなところでも、要らないものまで取り込んでしまったんですよ。これだけ村に木があるのに、コンクリートでつくってしまった建物もそのひとつです。私は今後5年間で、公営の建物をすべて木にしたいと思っています。
—それは素敵ですね。町並みが変わりますもんね。
青木村長:でしょう。コンクリートの建物は、50年も経ったらみすぼらしい姿になるじゃないですか。うちの村役場がいい例ですよ(笑)。木の方が見栄えも良くて長くもつ。何より、もっと木を使って、山を動かしていかないと。
—そうやって、実際に変えていけるのがまた、「小さなところ」の魅力ですね。
青木村長:Iターンの人たちも、そう感じてくれているのだと思います。これからも、そうした価値観の人に来てもらいたいです。人はいないけど、あんまりいないほうがいいよって(笑)、西粟倉が、暮らすにふさわしいと感じてくれる人に来てほしい。現在まで人口はずっと減ってきていて、この後ももう少し減ると予測しています。でもそれが底ではないかと今は思えますし、それくらいでちょうどいいかもしれないという気もしています。
「さすが山の村育ち」
と言われる子どもにしたい
—子どもたちに対する環境教育にも力を入れていらっしゃるとか。
青木村長:これもやはり、山あいの村だからですね。我々の山は、単に木が生えている場所なのではなく、価値のあるものなんだと、地球規模の環境問題や、日本の森林の状況を織り交ぜて学習してもらう。人工林は、ひとり一人の経済のために植えたものだけど、それだって自分のためじゃないわけです。将来世代のために苦労を重ねて植えたんだということを、忘れてはいけないですよね。
—学習を通して、人と自然のつながりや、前の世代、次の世代とのつながりも感じられそうですね。
青木村長:まさにそうで、「つながっているんだ」という感覚は本当に大切だと思います。ここだと瀬戸内海とつながっていますね。山は水を生み、上流から中流、下流へと流れて海に流れ込む。人もそのほかの生き物も、そのいとなみのなかで生きています。今の世の中はいろんなことが分断されていて、つながりを感じにくいです。だからこそ、ここで育った子どもたちには、「さすがに山の村で育っただけのことがある」と言ってもらえるような大人になってもらいたいと願っています。
—村長がおっしゃった「ここで暮らす意味を問いかけていこうよ」につながりますね。
青木村長:その通りです。現代人はものの見方が近視眼的になっていて、大人も目先の経済ばかりを見ているでしょう。そんなだと田舎なんて都会に比べて価値なんかないですよ。だけど山を知るとすごいですよ。無数の生き物の織りなす世界。田舎は何もないようでいて、手を伸ばせばそうしたすごい世界に触れられる場所。暮らす人の感性次第でいろんなことが見えてくる場所なんです。
栃木県出身のIターン者で家具職人。西粟倉の「百年の森構想」に感銘を受け、地元の材を使ったオーダーメイドの家具づくりに取り組む。
僕は29歳で単身西粟倉に移住してきました。その前は飛騨高山で、やはり家具職人をしていましたが、ひょんなことから西粟倉を訪れる機会があり、そのときに「森の学校」と、代々大切に守られてきた、美しいひのきの森に出会ったんです。自分にとっては運命の出会いでした。どうしてもここで森につながる仕事がしたくて、前の職場には戻った翌日に辞表を出しました。
最初の一年は、ひとり工房にこもり、家具の材としては不向きのひのきと格闘の日々。村の人にも相当怪しまれていたと思います(笑)。腕に自信はあったのに、やってもやってもひのきは言うことを聞いてくれない。所持金はわずかだし、プロポーズした彼女には結婚を待ってくれと言われて、崖っぷちでした。
現在は、あの、運命の出会いをしたひのきの森の木も材料に、オーダーメイドの家具を精魂込めてつくっています。東京などの都会のお客さんも、ここに足を運んでくれます。西粟倉で結婚し(前述の彼女!)、親になり、共に家具づくりに取り組む社員も増えました。近い将来、この山あいの村でつくる家具で世界に打って出たい。本気です。
大島さんの情熱に会える家具工房【木工房ようび】はこちら
編集後記
ボーダレスなグローバル社会、ネット社会。ケータイの会社のCMじゃないですが、世界は、「つながって」いるのでしょうか。青木村長のお話にもあったように、都市での暮らしは、自然のいとなみとことごとく「分断」されています。そんなことを意識しなくても、生きてはいける。だけど、自然のいとなみのなかでのつながりを肌で感じたことのない子どもたちに、“地球環境という問題”を理屈で教えてゆくのって、やっぱり限界があるように思えます。その意味でも、都市に住む人にだって、「小さいところもなくてはならない」はず。あぁ、西粟倉の“じまんの人”大島さんのお子さんも、きっと「さすがに山の村で育っただけのことがある」感性の子に育つのだろうなぁ。(2013年10月取材)