キラリと光る会社

59

笠盛

まちと共に隆盛を極めた歴史。
刺繍の笠盛は、
「社員の誰でもが社長になれる会社」へ

株式会社笠盛

群馬県桐生市は、「西の西陣、東の桐生」と謳われ、千年以上の歴史を持つ織物の産地です。1877年に創業した笠盛は、戦後大変な好景気に沸いたこの地で存在感を示した会社。現在は刺繍メーカーとして36名の従業員を擁し、糸で縫うアクセサリーのオリジナルブランド『000』(トリプル・オゥ)でも知られ、全国にファンを持ちます。経営においては、幾度もの窮地を経験してなお挑戦を是とし、「社員の誰でもが社長になれる会社」にしたいと語る4代目。5代目には、創業家出身者ではない社員が就任しました。
キラリと光る会社第59回は、笠盛 代表取締役会長 笠原康利さんにお話をお聞きしました。

笠盛公式サイト

かつてガチャマン景気に沸いた、織物のまち桐生で

—1877年創業という長い歴史をお持ちですね。

笠原さん:元々は機屋(はたや)ですよ。桐生は昔からそれで栄えて、織物の産地として1300年の歴史があると言われています。関ヶ原の合戦ではね、徳川家康も桐生の旗絹(はたぎぬ:家紋などを配した、戦で掲げるのぼり旗)を使ったそうですよ。1日で2400もの旗を作って献上したという記録がありますから、この辺りには相当な人口があったのでしょうね。それだけの人が集まるものづくりがあったということでもあります。

—おお、そんな歴史上の逸話があるのですね。笠盛さんはどのような経緯で、織物から刺繍に移行されたのですか。

笠原さん:機屋としてのうちのピークは昭和20年代(1945年〜)だったんですね。桐生のまち全体がそうでした。当時の繊維産業というのは、いまでいう自動車産業みたいなポジションで。ガチャマン景気って知ってますか?「(織り機を)ガチャンとやれば万のカネになる」と言われた、繊維業界の全盛期です。うちの親父も「使おうにも使いきれないほどのカネがあった」と話してましたよ(笑)。でも昭和30年代にはもう落ちてきたので、いろんなことを試して、残ったのが刺繍だったんです。

—なるほどそうでしたか。まち全体がそれほどの好景気に沸く様子には、想像をかき立てられますね。お父さまの時代に経験されているということは、笠原さんはかなりのおぼっちゃまだということですよね!

笠原さん:いやいやいや。でもうちの親父は、織物に関してはですね、発明家並みの発案をした人なんです。織り方の新案が大当たりして、当時はすごかったんです。桐生の織物の三分の一が笠盛グループだった!

—なんと、それはもう、笠原さんも桁外れのおぼっちゃまではないですか!

笠原さん:ははは!(当時大ヒットした映画、「若大将シリーズ」の“若大将”をもじって)機屋のバカ大将、「バカタイ」って呼ばれてましたね。機屋の息子はみんなそうだった。

—いわゆる“ぼんぼん”だったということですね。

笠原さん:そういうことですね(笑)。

笠原さん

「言っちゃう」「やっちゃう」「できちゃう」

—ところが継がれるころには景気も悪くなっていて、ご苦労された。

笠原さん:うまくいかないことばっかり!36歳で社長になったんですけどね、そのころにはもう仕事がなくなっていました。私は大学を出てからソフトウェアの会社にいて、刺繍のことも知りませんでした。知らないまま、知らないものを必死で営業して歩きました。

—それはそれは。

笠原さん:桐生で刺繍をやる会社も、従来メインだったアパレルの仕事が減って、200社以上あったのが30社ほどになりました。生き残るために、チャレンジの連続です。2001年にはインドネシアに生産拠点をつくりました。世界への足がかりにしたいと相当頑張ったのですが、4年で撤退ですよ。でも撤退にあたって決めた、東京で個展をする、東京に事務所を開く、海外の展示会に出る、という3つは実現させました。特に最後の、海外での展示会については、パリで連続出展しまして、誰もが知る高級メゾンの方々も来てくれたんですよ。

—すごいじゃないですか。

笠原さん:そんな高級メゾンからの仕事を受けたこともあります。(独自の技法でつくる刺繍装飾の)「笠盛レース」がね、そのブランドのコレクションに採用されたんですよ。

—おお!

笠原さん:しっかり目立つように使われたので、嬉しかったですよ。でも、儲かりはしませんでした(笑)。そんなにもらえないものなんですね。私たちはサンプルも買えないような値段の商品に使われていながら、なかなかシビアなものです。見る人が見るとわかるはずですけど、「うちで作った」とも言えません。

—えええ、そういうものなんですか。なんだかちょっと心外というか。

笠原さん:まぁ、ただとにかく、海外に出たのはいい経験でした。また別の形で挑戦しようと思っています。かつてほどアパレル業界からの仕事が多くなくなった分、自社ブランドの『000』(トリプル・オゥ)が広がってきています。全国にたくさんの店舗を持つ中川政七商店さんで扱ってもらっている影響で、雑貨店など、これまでとは違う市場で売れています。

—チャレンジの賜物でしょうか。笠原さんは元々、チャレンジを恐れない性格ですか。

笠原さん:昔から、思い切りはいいですね。やめた方がいいとみんなが思っていることでもまずはやる。インドネシアもそうでしたけど、その結果、ほとんど失敗してる(笑)!でもチャレンジしないとなにも開けてこないですからね、失敗してもクヨクヨしない。悩んでも仕方ないでしょ?

—逆に言うと、クヨクヨしないから、チャレンジを繰り返すことができるんでしょうね。

笠原さん:まずは言葉にするんです。「言っちゃう」「やっちゃう」「できちゃう」なんですよ。親父からも、「思いついたらまず言え」と言われていました。そうすれば、実現に必要なことを、みんなが教えてくれるって。相手がライバルだろうが同じで、「隠さずに口にした方が得なんだ、仮に聞いた相手がそのアイデアで先んじようとしたって、そうそうできるもんじゃないから」って。

000』のアクセサリーでは、工業用ミシンが、プログラミングされた工程で特別仕様の糸を刺し、立体が成形されていく。ミシンの後は「洗い」を経て、最後は一本一本、必ず人の手で仕上げられる。

携わるすべての人が幸せであるために会社がある。その原点が社員

—なるほど〜。発明家のお父さまが。それにしても、笠原さんはなんというか、オープンマインドな印象です。

笠原さん:自分をオープンにさらけ出すと、気づきが多くなるんですよね。人間って通常、自分の思う自分と、他人の思う自分とが、重なり合う部分しか理解できないものですよね。でも、とらわれを捨てて自分をさらけ出すと、自分の足りなさに気づけるんですよ。

—次々と哲学が。そういったオープンな考え方があるからきっと、あたらしい時代の経営がおできになったんですね。

笠原さん:さぁ、どうでしょう(笑)。

—200年企業を目指す「笠盛の信条」を見ると、「社員の幸せ」が最初にありますもんね。

笠原さん:「笠盛の信条」をつくったのは比較的最近で、その前は「ワクワク ドキドキ」がモットーだったんですよ。それだけじゃどうかということで、あらたに考えたものです。会社の目的って何かというと、みんなで幸せになることですよね。携わるすべての人が幸せであるために会社がある。その原点が社員でしょう。給料が出せるように儲けないといけない。しかし残業続きだとか、お客さまが喜んでいないとか、仕入れ先や地域と関係が悪いとかだと一時的に儲かったとしても幸せにはなれない。結局、携わるすべての人の幸せを考えることなんですよね。大変なときに考えたんですよ。そもそも会社はなんのためにあるのかと。いろんな会社を見せてもらいに全国を回って、良いところを真似ながら、考えて、この答えに辿り着きました。

—大変なときに考えたのですか。

笠原さん:はい。大変なときにはね、私もかつて、働き通したんですよ。でもね、自分一人がいくら働こうが、その頑張りは足し算にしかならないわけです。8時間じゃなく16時間働いても、仮に徹夜で24時間働いても、たかだか知れてるわけですよ。みんなでやると掛け算になりますよね。

—笠原さんの理念は、社内で浸透していますか。

笠原さん:どうだろう(笑)。月に一度、「笠盛人の日」というのを設けて、こうした考え方を実践する“笠盛人”になるための学びの時間にしています。私は参加しないの。口出しせずにはいられなくなるから!だから朝礼も出ないんです。

—あはは。いい会長さんですねぇ。ところで、笠原さんまでは創業家の社長さんですが、5代目にあたる櫻井理社長は違うんですね。

笠原さん:櫻井はファッションの好きな人間です。それまでは5〜6社をうろうろとしていたようですが、30年間くらい前、25歳でうちに入ってきて、営業をやってくれました。

—信頼をおいていらしたのですね。

笠原さん:そうですね。会社の低迷期、満足な給料が出せなかったときにも頑張ってくれる姿を見てきました。

—そうかぁ。

笠原さん:娘も息子もいるんですけど、関連会社でデイサービスの事業をやってるの。苦労してますよ(笑)。でも経験すればいいと思ってます。私も振り返ればそうでした。40年分くらいの決算書を引っ張り出して見返すとね、いいときの自己資本率は60%、悪いときはマイナス(笑)。長い目で見ると、波があるものなんですよ。もうダメかと思うこともありましたけどね、何事も経験。経験するから身につく。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」ってビスマルクの有名な言葉があるでしょう。私はあれ、逆だと思ってますね。

—いや、経験大事ですよね。

笠原さん:でしょう。それに私は、みんなが社長になれるような会社にしたいんですよ。本体が持ち株会社のようになってね、やりたい社員がそれぞれに独立する。

広報部の野村文子さん。この規模のものづくり企業で専任の広報担当者がいるのは珍しく、そこからも笠盛の方針を窺い知ることができる。落ち着いた口調で丁寧に案内してくださり、また、自らを「笠盛のフリー素材なので」と(笑)、てらいなく写真に収まってくださった。

200年企業になれても、中身がスカスカなら意味がないから

—「一人ひとりが経営意識を持って」みたいなのはよく聞きますが、本当に社長になるという意味ですか?

笠原さん:そうです。上に立てる人をいっぱいつくる会社にしたい。

—選択肢として、社長にもなれる。

笠原さん:そうそう。社員が持てる能力を全部発揮できる場をつくって、自己実現を後押しするんです。

—自己実現を、実現する!

笠原さん:200年企業になるといっても、中身がスカスカなら意味がないですからね。人を育てたいし、技術の伝承もしたい。

—そこも育成とセットでしょうが、技術伝承に関しても、日本中のさまざまなものづくりにおいて課題とされていますね。

笠原さん:一度絶えてしまうと取り戻せないんですよ。細々とでも続けていれば、いまの時流においては廃れていても、あるときなにかのきっかけで活かせることがあるんです。

—引き出しの奥から出せる状態にしておくのですね。

笠原さん:そうですそうです。うちはね、若い人は増えているんですけどね、間があまりいない。これもちょっと、技術の伝承に取り組む上では課題です。

—でも、どの企業も採用に四苦八苦している昨今、若い人が増えているというのは頼もしいですね。採用活動では、なにか特別なことをされているのですか。

笠原さん:いや、特にはないですね(笑)。

—なおさらすごいじゃないですか!人気なんですね。

笠原さん:地元の人も、そうじゃない人も来てくれますね。インターンとか、会社見学を経て、が多いかな。『000』がおもてに出ているのが大きいでしょうね、OEMだけやっていると会社を知ってもらう機会がなかなかないですから。

—確かにそうですね。それにしてもすごいです。最後に、チャレンジする笠盛さんの、今後予定しているチャレンジをお聞かせください。

笠原さん:あらたな市場の創造ですね。刺繍は対象を選ばないので、アイデア次第で可能性がまだまだあると思っています。未着手のインテリアの領域とかね。チャレンジしないで止まっていると廃れる日が来てしまう。いまは『000』に助けられていますけど、これだって最初は売れず、数年はガマンしました。それに、失敗するなら早くしないといけません(笑)。体力があるうちに。

桁外れのおぼっちゃまとしてお育ちになった(?)笠原さんだが、まるで壁を感じさせない気さくな方だった。

伝統的に養蚕が盛んな群馬県の、独自の蚕種(さんしゅ:蚕の卵)「ぐんま200」のシルクを使った特別なネックレス。深く美しい艶の、気品ある白色だった。

笠盛のじまんの人

片倉洋一さん

神奈川県出身。2005年に入社し、2010年に自社のアクセサリーブランド『000』(トリプル・オゥ)を立ち上げました。現在は同ブランドの事業部部長を務め、メディアにも度々登場されています。お話によれば、フリーランス時代にネットで笠盛に行き当たり、「この会社は尋常じゃない」と感じたそう。募集もしていない中でやって来て笠原会長と対面し、さらにピンときたそうです。ご自身を評して、「前向き思考で振り返るのが苦手。イヤなことは上書きされるアップデート上手」。「会長と似てる」とのことです(笑)。

僕は失敗の数なら誰にも負けませんよ。笠盛は失敗を怒られない会社なんです。失敗から成功をつかもうという思考の会社です。桐生に住んで20年。入社前から繊維産地として魅力を感じていましたが、理解が深まったいまは、土地の文化を解釈した上で強みを活かし、“笠盛らしさ”に発展させられるようになりました。商品開発をする際には、糸を作るところから地元の職人さんと協働したりします。足元にしっかりした技術があるから、シンプルにしていままでになかったものを生み出すことができます。ここにしかない素材を使いながら、奇をてらわず、より多くの人が楽しめるものに昇華させるのが、僕らのデザインの正義かなと。休日は、ときどき山に登ります。山から桐生のまちを見下ろして物理的にも俯瞰できる状態をつくると、自分の意思でここに暮らしている実感がわくんです。漫然と人生を過ごしたくない思いがあるので、そうやって確認することでポジティブになれるんですよ。

編集後記

取材と称してよからぬ営業をかける商売が横行しているとかで、実は昨今、「取材を」と口にするだけで警戒されることが増えました。笠盛に申し込んだときは、広報の野村さんが「ぜひとも」と、ほどなく応じてくださいました。前のめりなわけでもなく、しかし、フラットに、オープンに接してくださいました。安心しました。我々の到着時には、笠原会長が駐車場にニコニコ迎えに出て来てくださっていたし、わずかしかお時間が取れなかった『000』の片倉さんも、以前からの知り合いでしたっけ?と勘違いしそうに友好的でした。お聞かせくださったお話は、読んでの通りです。いいエネルギーしか感じさせない笠盛がすっかり好きになり、桐生のイメージまでもが急上昇。きっとここに訪れる皆がそうなると思います。(2024年12月取材)

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