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天洋丸
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天洋丸
煮干しの生産量日本一の長崎県。その長崎県雲仙市、橘湾で、煮干しの原料となるカタクチイワシ漁を行ってきた天洋丸。漁で使ったまき網を再利用したヒット商品「網エコたわし」や、煮干しをはじめとする海産物を用いたユニークな商品の開発、販売にも手を広げています。ミッションは「水産資源の価値を高め みんなと笑顔になる」。廃業する同業者や関連事業者が増える向かい風の中、2015年に法人化、“水産業の原点”である漁業を次の世代につなぐため、若い人にも支持される会社や商品づくりを目指して工夫を重ねています。
キラリと光る会社第56回は、天洋丸代表の竹下千代太さんにお話をお聞きしました。
—漁業を専業とするようになる前、竹下家は仲買商を営んでいたそうですね。
竹下さん:うちが漁業を生業にし始めたのは1947年のことで、私の祖父の代ですね。それ以前は正確には把握しきれていないのですけど、戦前、全国的にユリ根が儲かる時期があって、そのときはユリ根の仲買をやったようです。昔は職業の捉え方もいまとは違いますからね、みんな、暮らしを成り立たせるために何をするかであって、この辺りでは漁も畑もやる人がほとんどだったと思いますよ。
—そうか、そこで暮らしていくためにどうするかで、多くは半農半漁で成り立たせていたのですね。ユリ根が儲かった時代もあったのも、知りませんでした。
竹下さん:うちは煮干し用のカタクチイワシのまき網漁を主体に行ってきました。過去には年に2シーズンの操業で生活を賄えた、景気のいい時代もあったんですよ。
—いまは異なりますか。
竹下さん:いまは無理ですね。複数の船が船団を組んで漁を行うのですが、最盛期には27船団あった橘湾の船団で、いま残っているのは3船団、そのうち天洋丸所属が2船団。廃業するところをうちが買い取って維持しての2船団です。
—そうでしたか。橘湾の漁業は天洋丸さんの肩にかかっているわけですね。
竹下さん:まき網漁では、操業に25人前後が必要なんですね。専業漁師でなくても、漁の経験者はまだ地域に残っていて、都度、パートタイムのような形で加わる人もいます。煮干しの加工に携わる農家の人たちもいますし、いまも地域としてやっている感じではあります。水揚げされたカタクチイワシはすぐに加工場に運ばれるので、夜中に近所の人を電話で起こして作業してもらうようなことを、いまもやっています(笑)。
—あぁ、なるほど。天洋丸さんは、いわゆる6次化※への取り組みの印象が強いですが、竹下さんとしては、やはり漁業者としての意識が強いですか。
竹下さん:6次化は、2015年に株式会社にしてからですね。会社として成り立たせて、ここでの漁業を残すためにいろいろやってるんです。漁業は水産業の原点でしょ。漁業があるから、造船があって、市場があって、他にも加工する人、流通させる人…、それはそれはたくさんの人たちが生活してるわけですよね。そしてもちろん、日本の食を支えてる。関わる人たちが残らないと、自分たちも残れない相互の関係にありますから、漁業者として踏ん張らないと。うちのミッションは、「水産資源の価値を高め みんなと笑顔になる」です。
※6次産業化。第一次産業の事業者が、従来のように農林水産品を出荷するにとどまらず、製造加工、小売や飲食など、二次、三次産業にも取り組むこと。
—竹下さんは子どものころから家業を継ぐものとして、いまのそうした理念につながるようなことを言い聞かされて育ったのですか。
竹下さん:すでに全国的に、漁業なんかよりサラリーマンがいいという風潮になっていたころで、それもあってなのか、両親は継げと言わなかったですね。親戚からは、「本家の長男なんだから(継がないと)」と、折に触れて言われましたけどね、僕もご多分にもれず都会に憧れてましたから、ここに残って漁業を継ぎたいとは思いませんでした。ただ、嫌いじゃなかったんですよ。東京の大学でも水産で学びましたし、卒業後も、マルハ(大手水産加工の、現マルハニチロ)に就職しました。
—サラリーマンを経験してみて、やっぱり家業を、と思うに至ったのですか?
竹下さん:就職先での仕事は好きでしたが、年齢と共に漁業と故郷への思いが募ったとでもいうのですかね、あっちで結婚して子どももいたんですけど、2001年に、30代半ばで家族を連れてUターンしました。天洋丸の商品のデザインなんかはいま、カミさんと娘が地元九州のデザイン会社と相談しながらやってますよ。
—そうでしたか。デザインもとても素敵ですが、「網エコたわし」に「じてんしゃ飯の素」、「ニボサンバル」と、内容もネーミングも、オリジナリティがあってユニークな商品が多いですね。どなたの発案ですか。
竹下さん:原案っていうんですかね、それはだいたい僕ですかね。使い古しの漁網は、有効活用してお金に換えられないかとずっと考えてました。イワシ網の目は細かいから泡立ちもいい、小さくカットして食器洗い用にしてはどうかと、あるとき閃いたんですよ。年寄りの漁師が網の切れ端を使ってモノを洗うのを目にしてましたしね。パッケージデザインをちゃんとしてもらえれば売れる!と確信がわきました。
—いい形のリサイクルですよね。
竹下さん:そうそう、SDGs。じてんしゃ飯は郷土食で、自分たちが考えたわけではないんです。ここらの炊き込みご飯には昔から煮干しが入ってました。家庭や地区によっていろんな呼び名がある中で、ピンときたのが「じてんしゃ飯」。昭和初期に長崎で開催された自転車レースに由来する呼び名です。ニボサンバルは、うちで働いてくれてるインドネシア人の実習生たちのふるさとの味、サンバルを煮干しをメインに再現したものです。彼らが毎日サンバルを食べてるから興味を持って、いろいろアドバイスを受けながら作りました。
—竹下さん、商品開発のセンスがあるんですね。
竹下さん:いや、いつも半分冗談でてきとーに言ったら、みんなが形にしてくれるんですよ。ネーミングも、とりあえずなんでも、煮干しの「ニボ」をつければいいじゃないかと、煮干しを餌に混ぜて養殖した「雲仙ニボサバ」というサバもありますよ。
—ニボ!…いやいや、やっぱり相当なセンスの持ち主だと思います!
竹下さん:言い出すときはてきとーですけど、加工に関しては素人だったから、どの商品も、できるまでにはかなり試行錯誤しました。全部に愛着がありますね。マルハで営業職だったとき、特にコンビニ向けの商品がそうだったんだけど、僕が売れると思ったものは売れずに、売れるわけないと思ったものに限って売れたんですよ(笑)。あのときの教訓で、自分のセンスを過信せず、プロの助けを借りるようにしてるんです。丸投げはしませんよ、でもある程度は任せながら、しっかりすり合わせを行って、納得のいくものを作るんです。
—とても、正しい感じがします。天洋丸ブランドの商品は、いろんな賞を受賞してますもんね。
竹下さん:何を入り口にしてもらってもいいから、うちのタワシならタワシの、その向こう側の世界に少しでも思いをはせてみてもらいたいんですよね。漁業の存在は誰もが知っていても、漁業というものを理解している人は少ないと思うんです。あちこちで、魚が減っていると言われていますよね。それも問題ですけど、漁業の担い手不足は深刻で、小さな地域の漁業は、悪条件が重なり本当に危機的なんですよ。だいたい田舎には、進学の段階で若い人が残りませんからね。僕だってかつては都会に憧れました。無理もないと思いますよ。でもだからこそ、ここで続けていける会社であるために、攻めていく必要がありますし、若い人にも漁業の魅力を伝えていきたいんです。
—竹下さんが感じている、漁業の魅力を教えてください。
竹下さん:これはね、まず純粋なところでは、釣りの延長ですよね。釣りにハマる人っていっぱいいるでしょ。狩猟本能を刺激されるんですかね、理屈抜きでたまらなくおもしろいんですよ。漁師の場合は趣味の釣りより当然スケールが大きいし、さらには、何といってもお金になるわけです。豊漁のときはもう、魚がお金に見えてくるってみんな言いますよ(笑)。
—へぇ!そうなんですね。
竹下さん:体験した人にしかわからない興奮状態というんですかね、きっとパチンコで当たりが出たときとかと同じだと思います。よく言われる「アドレナリンが出る」ってやつですかね、ハイになる。魚を取りすぎると値崩れもあるし、次の世代のためにならないから抑えるんですけどね。
—そういう、本能に訴えるようなおもしろさ!
竹下さん:そうなんです。そこは、年齢を問わず魅力を感じる部分だと思いますね。お金に関しては、昔のようにそもそも一攫千金とはいきませんけどね。でもいまの若い人にとってのいい仕事というのは、一時のお金だけではないですよね。漁師の報酬はずっと、最低保証のある変動給でした。歩合で計算されるんです。いまから漁師になろうという若い人にはその条件はむずかしく、安心してできる安定した仕事であることがまず重要です。それに、家族や友だちとの時間が作れることも。
—それで法人化されて、会社に就職する形態を選べるようにされたのですね。
竹下さん:はい。通年雇用の固定給はもちろんのこと、なんのために、誰のためにする仕事なのかの理由も必要だと思うので、日本の食を支える仕事にやりがいを感じながら、休みも取れて、趣味も持てるようにと。ただ、そういう会社にするには経営体力が必要です。経営はむずかしいですよ。
—6次化だとか、攻める経営だとかと、だんだんつながってきました。
竹下さん:長崎は北海道の次に海岸線が長くて、海域が広いんですよ。そんな中でうちは、橘湾にしか許可がない。「橘湾の漁師は池の中で漁をしてる」と言われてきました。そんな狭いところでも、人がいれば仕事が必要ですから、やれることに手を尽くしているわけです。岩牡蠣やサバ、サーモンの養殖も始めました。従来、まき網の許可しかなかったので、養殖や定置網の許可を持つところが廃業すると、それを引き継ぐ形で参入するようにしてきました。
—先ほど、漁業を理解している人は少ないとおっしゃっていましたが、この「許可制」の中身も、意外と知られていないことではないでしょうか。
竹下さん:それによって農林水産大臣か知事の許可が必要なんですけど、そうそうあらたに得られるようなものではなくて、だから、「橘湾でのまき網だけの許可」でやってたんですね。漁法については他にも、定置網とか、底引き、刺し網とかいろいろあるけど、ここでは許可がない。どこでどのような漁を行うのか、漁業でいう許可というのはつまり、限定的な「禁止の解除」なんですよね。海という共有財産は、誰も好き勝手にできないことになっているんです。
—禁止の解除、というのはわかりやすいですね。そうか、共有財産だから。
竹下さん:そうなんです。ちょっとした釣りなんかは自由漁業で、我々のは許可漁業です。
—先日農家さんの話を聞いて、農業のことを知ってるようで知らないと感じたばかりだったのですが、漁業はもっと知らないかもしれません。
竹下さん:きっとみなさん、そうですよね。
—最後に、この地域への思いを聞かせてください。今日は晴れていたこともあって、なんてきれいなところなんだろうと、心奪われていました。
竹下さん:それはね、僕も戻って来て長いですから、いまどうかと聞かれると「別に」という感じです(笑)。家族への思いと同じだと思いますよ。離れていると恋しいとかあるかもしれませんけどね、ずっといると空気みたいになるし、うっとうしいこともあるでしょ。悪口も言いますよね、あいつはダメだとか、ここは田舎で何にもないとか。自分で言う分にはいいんですよ、でも他人に言われるとカチンとくる。そういうものですよ。
白水涼さん
長崎市出身。「その人柄で後輩たちから絶大な信頼を得ている」と竹下社長に評される、2012年に高卒で入社して以来の生え抜きです。現在は(船団の)本船の船長を務めるばかりか船長を束ねる漁撈長。一回の漁につき8船で出るため、船長は8人、自分よりずっと年上の船長もいるし責任は重大だし、「ほんとは漁撈長は遠慮したい」とおっしゃる白水さん、謙遜ではなく本心に見えました(笑)。食べるのも肉より魚。でも食べ方が下手で小骨が刺さるそうです。お子さん2人のお父さんで、4世代同居!
天洋丸は高校の先生が求人票を持って来てくれて知りました。親と同じ大工もいいなと思っていたんですけど、仕事がないからやめておけと言われて。従兄弟に漁師がいて漁師にも興味があったのと、子どものころから夏休みには母方の実家がある五島で泳いで釣りして、海が大好きでした。初めは沖でまき網を引き上げるのがキツかったし、覚えるのに必死でしたが、だんだん楽しい方がまさるようになりました。身につくのも楽しかったし、魚を取るのは本当に楽しいんです。天洋丸という会社も楽しいです。いろんな種類の漁業をやっていて、いろんな魚種にも触れられます。漁師は体育会系でしょうが、自分自身は何かあっても怒鳴ったりしない性分ですね。負けん気が足りてない自覚はあります。よその船のほうが魚を取っていても、「まぁしょうがないか」と思ったりして(笑)。船長としての自分も、あまり強制せず自由にやってもらって、何かあればフォローするタイプですね。
竹下家は、実は田中三次郎商店 » の田中家のご親戚です。あぁ、私もこんなところにこんな親戚が欲しかった!と思いました。こんな実家に帰省するのにも憧れます。そして、白水さんの子ども時代の夏休みは、まさに理想の夏休み。それにしても、魅力的で興味深いお話でした。飄々とした竹下さんのお話しぶりは、あえて「語り」という風でもなく、饒舌には感じられないのですが、自然にしてじわじわと惹きつけられるものがありました。今回お会いしていませんが、デザイン決めなどをされているという竹下家の女性たちが、あたらしい漁業におけるカナメになっているという噂(田中家からの情報)もお聞きしました。地に足つけて地域と共にありながら、世の中の変化に対応した魅力ある商品を送り出す、天洋丸はとてもカッコいいです。(2024年11月取材)