東京都葛飾区で昭和4年(1929年)に創業。「紙器」とは、紙製の商品パッケージや容器を指し、髙田紙器はそれらを製作する老舗企業です。某ハイブランドや、某有名キャラクターのパッケージも作る髙田紙器ですが、それ以上に、アイデアマンの4代目が創作するおもしろ紙製品が、業界内で知られています。従来の、大手印刷会社や広告代理店からの下請け仕事から脱却し、自らの創意工夫で生み出す商品で、ものづくりの賞を連続受賞。現在は海外展開も視野に。半世紀にわたり障がい者雇用を継続する会社でもあり、そちらも注目されています。
キラリと光る会社第55回は、髙田紙器製作所代表の髙田照和さんにお話をお聞きしました。
—創業95年、ですかね。お祖父さまが始められた。
髙田さん:紙器の会社は、うちのようにすごく古いか、ここ15年、20年の間にできた、比較的あたらしいところがほとんどなんですよ。間がないの。間の企業もあったけど、だいぶなくなってしまいました。僕の知る限り、現在葛飾にある紙器業は6軒かな。うちは祖父の丁稚奉公先が同業で、最初はそこからの暖簾分けのような形で始めたそうです。
—そうですか、丁稚奉公先が。
髙田さん:僕は祖父が60歳のときに生まれた孫です。大人になってから、祖父の日記がたくさん出てきまして、それに書かれていたことでいろいろ知りました。貴重なものだからと弟が全部PDF化して保存しましたけどね、字が下手で、解読するのが大変でした(笑)。
—あはは。でもマメに記録されていたのですね。髙田さんはいつか継ぐものだと思って育ったのですか。
髙田さん:どこかでは思ってましたね。ただ、僕は漫画家になりたかったんですよ。
—漫画家!
髙田さん:中3のころ、同級生に一条ゆかりという少女漫画家を教えてもらったんですね。すごく影響されまして、以来、少女漫画家になりたいと勉強そっちのけで。おかげで高校でも、「早慶確実クラス」と呼ばれる進学クラスにいながら、独学で漫画のプロを目指して精を出して、不確実組に脱落していきました。
—不確実組の少女漫画家志望ですか。ユニークな少年だったのですね。
髙田さん:3歳のころから絵画教室に通っていて、絵がうまかったんですよ。図画工作は大得意。
—工作も得意というところは特に、現在にも活きていますね。でも、漫画家は途中であきらめたのですか。
髙田さん:絵はプロでも通用するレベルにあったと思うんですけど、一方で僕は、ストーリーテラーではなかったんですね。おもしろいストーリーを創作できなくて、周囲の人にも褒められるのは絵だけでした(笑)。うちの会社のバブリーな時代と重なったので、ちょっとの間は働かずにいてもいいかなと思ってたんですけどね、「就職しろ」と言われまして、それで漫画家の道は断念して、紙関連の会社の開発部で5年ほど働きました。その後、髙田紙器製作所に入ったんです。
—その十数年後、2004年に社長になられていますが、絵や工作がお得意なだけでなく、アイデアマンなんですよね。
髙田さん:そうですね。アイデアはいくらでも出てきますね。
—いくらでも。
髙田さん:2024年の4月から、月一だったのを改めて、週一で新商品を出すことに決めました。趣味みたいなものです。
—週一って、簡単におっしゃいますけど…。
髙田さん:世にいっぱいあるモノを紙化するだけなら苦労はないですよね。できるかできないかだけです。誰もが知ってるモノでも、紙製に置き換えるだけでびっくりされることって多いんですよ。それが楽しい。
—ものづくりの賞を受賞された洗濯バサミ!
髙田さん:そうそう、「ピンチピンチ」っていうんです。ユポ紙っていうね、耐水性もある特殊な紙でつくりました。紙なので2Dの状態のものが、簡単に折れて3Dになって、ちゃんと機能も備えていますから、「おーーっ!」って言われる。快感ですね。そうやって驚かれたくて、「天才!」って言われたくて、次に何をつくろうか常に考えてます(笑)。
—全部ご自分で?
髙田さん:はい、自分で企画、設計します。社内のみんなも、ブラッシュアップのアイデアは出してくれますけど、最近はスピードが追いつかないみたいです(笑)。
—きっかけはなんだったのですか。
髙田さん:紙器の会社はどこも、大手印刷会社や広告代理店からの下請けのようなポジションの製造業としてずっとやってきたんです。うちも昔は、仕事の3分の1くらいがそれで、続けていたらこんなふうに新商品開発もやらなかったでしょうね。でもそういう下請け仕事は、売り上げは大きくても利益は小さいし、競争もあるし、思い切って業態転換したんです。
—それで、アイデア勝負に。
髙田さん:理由はもうひとつ。僕は早いころから趣味でコンピューターを使い始めたオタクだったんで、まだアナログが主流だった時代に、「これからはコンピューターを介さない紙の仕事はなくなるな」と予測ができたんですね。それを前提にPCやデジタル加工機を導入したりしたのは正解でした。リーマンショック後には同業者がいっぱい廃業しましたし、デジタル化が加速する中で、情報伝達や記録を目的とした媒体としての紙、というのはもうむずかしいなとあらためて確信して、そうではないところでやっていこうと思いました。いまは、少なくとも30年先までは、デジタルに取って代わることのできない仕事をしたいと考えています。
—先見の明もあったんですね。そして、紙自体からは離れずにいまに至る。
髙田さん:紙という素材は依然としてすごく魅力的なんですよ。なにせ形にできるスピードが違うでしょ。木やプラスチック、金属の比じゃない。
—確かに、言われてみればそうですね。
髙田さん:いつも変わったことばっかり考えてるんで、大手の製紙会社さんや印刷機器の会社さんも、よく相談にいらっしゃいますよ。うちならニッチな製品の使い道なんかも考えるだろうと(笑)。
—さっき、コンピューターオタクだったっておっしゃいましたよね。漫画もそうだったし、なにかと追求するというか、凝り性、なんですかね。
髙田さん:そうそう、完全にオタク体質ですね。少し前までは超のつくアニオタだったんですよ。毎晩徹夜で観続けたりね、でも時間を取りすぎてダメだと思ってやめました。ちなみに、僕ら昔からのアニオタはですね、“鬼滅”は観たら負けって決めています。なぜかは言いませんけど(笑)。
—ぜんぜんわかりません(笑)!
髙田さん:筋金入りかどうかの指標ですから今度誰かに聞いてみてください。
—わかりませんが(笑)、髙田さんが筋金入りだということは承知しました。
髙田さん:漫画の単行本は2000冊以上所持してたことがあるし、車好きで走り屋だった時期もあります。オタク体質でどんどんハマるので、やめどきが重要なんです。趣味では、いまは読書くらいですかね。乱読で、日に4時間以上は読みます。おじいちゃんなので毎朝4時前に起きるんでね。
—エネルギーもすごいですね。
髙田さん:64歳ですよ。
—年齢は感じさせませんね。
髙田さん:とにかく明るいので、そのせいかな。昔から、親が呆れるくらい楽観的でしたから。
—経営者として、プラスに働いていますか。
髙田さん:そうですね!……いや、そんなことないか。これほど楽観的なのが経営者として長所かは微妙なところですね(笑)。僕はお金の管理も得意じゃないし、本来経営者よりクリエイター向きだと思うんですよ。
—でも楽しそうです。
髙田さん:それはそうですね(笑)。
—ところで、御社では50年以上前から障がい者雇用を行っていたのですよね。
髙田さん:はい、ずっと、知的障がいの人が働いてくれています。これまで9人かな。定年まで勤め上げた人も2人。
—50年も前だと、社会的に、いまとは捉え方もずいぶん違っていたと思うのですけど、どういうきっかけで?
髙田さん:3Kと呼ばれる職場でしたから、最初は人手不足を埋めるためだったと思うんですよ。ハローワークから声を掛けられて採用した最初のその人が、とても器用で優秀だったんです。てんかんの持病があって、薬を飲みながらなので副作用でぼーっとしたりね、倒れることもたびたびありましたけど、強みも弱みもあるのは、障がいの有無に関わらず誰だってそうじゃないですか。働いてもらって助かったので、そこからは抵抗感もなく。
—偏見も多い時代だったと思うので、「すごいですね」って言われませんでしたか。
髙田さん:言われましたけどね、特性を理解すれば、あとはやり方次第ですよね。どんな会社でもできるはずですよ。現在は15人のうち1人だけです。いまはむしろ、大手さんに行っちゃうの。一定以上の規模の会社では雇用が義務化されてますでしょ。だから、うちはいまもウエルカムなんですけどね、なかなか選んでくれなくなっちゃった。
—強みも弱みもあるのはみんな同じとか、どんな会社でもできるとか、さらりとおっしゃるのは、でもやっぱりすごいなと思います。
髙田さん:いや、でも僕は、従業員との関係でいうと超ドライだと思いますよ。去る者を追わないし、アットホームな会社でもないと思います。父は親分肌で面倒見がよかったのに対して、僕は、相談を受けたら誠実に応えるよう努めたり、社内がギスギスしないよう、誰かが孤立したりしないよう、小細工するくらいですね。
—それくらいがいいという人もいるのでは。
髙田さん:そうですね。うちは副業可ですし、それも、会社のインフラや資材を使っての副業でもいいんですよ。
—それはなかなか聞きませんね。
髙田さん:実際、機械使ってやってたりしますよ。
—いいですねぇ。いろいろ独自路線の会社として、これから何か仕掛けていきたいことはありますか。
髙田さん:見たことのない紙製品の販売会社をやるつもりです。アメリカ発で、あっちで定着したら逆輸入、みたいにしたい。
—アメリカ発で!
髙田さん:紙製品の文化が違うんですよね。あちらのほうが高い価値を見出してもらいやすいんです。
—あぁ、なるほど。
髙田さん:アメリカで販売するための下準備もできていまして、実はもう、販売会社の社名も決まっているんです。「びゅーちふる商会」って。
—びゅーちふる?
髙田さん:僕が20年前から推してる「びゅーちふるず」というバンドがあるんです。びゅーちふる商会の社長と社員という設定のメンバーで構成されてるバンドなんです。同名のリアルな会社をつくって、さらに応援したい気持ちがありまして。
—なんだかいろいろ、楽しそうです。
髙田さん:あと11年、75歳まで髙田紙器で頑張ろうと思ってます。
—後継者はお決まりですか。
髙田さん:はい。これまでうちは家業として、4代続けて身内でやってきましたけど、家族ではない従業員に渡すつもりです。僕が会長として残ると遠慮したりするでしょ、だからきっぱり退くつもり。会社として借金がありますから、残りの11年間、僕の代でそれをなくしてから渡してあげたいと思ってます。
—この先の11年で、財務的なところのほかに、どのようなものを残したいですか。
髙田さん:「紙といったら髙田紙器製作所」と言われるようにしたいですね。「紙」で検索すると大王製紙じゃなく髙田紙器がトップ(笑)。そのためには、クリエイティブで価値の高い紙製品を世に出して、ちゃんと利益も出して、従業員を応援したいしミュージシャンも応援したいですね。
『キラリ』始まって以来、まさかの社長ご本人がこのコーナーにも!「うちの人たち、みんな恥ずかしがり屋さんで、出るのイヤだって言うんですよ。私でもいいですか?」と事前に伺い、最初は「え?」と思ったのですが、髙田さんのお話をお聞きして、そのキャラクターに接するうち、この「まさかの、ご自身が“じまんの人”」というのにも、違和感がないように感じてきました(笑)。
「これからはコンピューターだ」と思った時代があったように、これからは経済に物々交換を導入というか、回帰させるのがいいと真面目に考えています。中小企業同士ではよくあるんですよ、ある程度の金額までの仕事だったら、お互いに必要なモノやサービスを交換し合ったほうが、気持ちよくできるんじゃないかっていうことが。例えば髙田紙器がみつばち社さんに、「うちのWebサイトにこんなページ作ってほしい。でも予算が厳しいな」となったとき、みつばち社さんには「ポップアップの名刺やパンフレット欲しいな」というニーズがあったとします。コミュニケーションの中で「物々交換にしよう」っていうの、アリだと思いません?事務的なコストもかからないし、なんか楽しくないですか?お金との交換のバランスをきちんと考えて、マニュアル化までしたいと考え中です。
世の中には、ユニークな社長さんというのが無限にいるのでしょうか。と、またまた思わされた髙田社長でした。でもこれは真面目な話、やはり人間、年齢と共に頭も固くなる傾向があるのは否めないと思うんです。それがないのか、あってなお、このように柔軟なのかは知る由もありませんが、すごいことですよね。アイデアの泉ですよ。それになんといっても公私共に楽しそう。次々やめないといけないほどにのめり込む趣味があって、見つけるまでもなく、常に生きがいがあるというのは「オタク体質」もいいものだなと、つい思わされもしました(笑)。もちろんそればかりではなく、経営の押さえるべきところは押さえて、長年にわたりきちんと会社を成り立たせていらっしゃるのですから素晴らしいですよね。アメリカの紙業界も席巻してもらいたいです。(2024年10月取材)