キラリと光る会社
飲食業界のセオリーを超えて。「人生を過ごす価値のある会社」でありたい。

株式会社EVENTOS

コンセプトは「from farm to table」。EVENTOS(イベントス)は、農作物作りにも携わりながら、食材の販売や飲食店の運営を行う、文字通り農園から食卓までを事業領域とする広島県の企業です。早くから地産地消を標榜し、地域活性化にミッションを広げました。バブル全盛期に創業した当初はイベント会社だったため、社名はそのころの名残です。現在40名強のメンバーは平均年齢30代前半と若手が中心。紆余曲折、大きな波乱の経験から、骨太の経営理念を持ち、従業員一人ひとりの働きがいを大切にしています。
キラリと光る会社第52回は、EVENTOS代表の川中英章さんにお話をお聞きしました。

EVENTOS公式サイト

バブルの真っ只中、27歳で起業。借金地獄も経験

—川中さんが起業されたのは27歳と、早かったですよね。

川中さん:大学職員として4年半働いたんですね。ところがおもしろくなかったんです。65歳を超えた人たちばかりの教授や理事は、学生の将来を自分ごとのように考えているとは思えず、あるとき「人生の選択肢を示すことのできる大学にすべきでは」と、意見したんです。すると叱られまして、上司に、不満があるなら辞めて自分でなにかしろ、それができないなら我慢すべき、我慢すれば、将来も安泰だと言われました。我慢して残っても、この人たちのようになるのは嫌だと思いましたね。

—それで起業を考えられた。1988年といえばバブル真っ只中ですよね。

川中さん:起業は考えたものの、肝心のやりたいことがありませんでした。バブルのさなか、勢いがあるのは広告代理店かイベント業だったんですよ。そこで、高校時代のサッカー部仲間2人と僕、その後に加わった部の元マネージャーと合わせて4人で、イベント会社を始めました。

—景気がいい中とはいえ、思い切りましたね。

川中さん:それが、いまだにそうなんですけど、鈍感で危機感もなくて。前の職場が反面教師となって、「若い人たちが活躍できるような活気ある会社にしたい」とだけは、そのころから思っていたのですが、やったことといえば広告代理店の下請けの下請けとでも言いましょうか、下働きです。大規模合コンとかが多かったので、その設営や下準備。

—まだ飲食にはタッチしていなかったのですね。

川中さん:飲食業に目が向いたのは、お弁当の手配からです。大規模イベント用にたくさん請け負っても、外注して手数料を取るだけではほとんど儲けが出ないので、自分たちでお弁当を作るところからやろうと。

—現在の事業への下地が。

川中さん:僕はレタスとキャベツの見分けもつかない人間でしたが、一方で、一度やりだすと追求するタイプなんですね。ちょうど田崎真也さんが日本のスターソムリエとして注目されて、あるとき雑誌で「味のわかる男」と称されていました。これだ!と思ったんですよ。飲めばなんでもおいしかったくせに、味のわかる男になりたくてソムリエの資格を取ったり、コンクールに出たり。当時、夜間にホテルの宴会の設営などのアルバイトを、勉強を兼ねてしてたんです。そこで仲良くなったコックさんをEVENTOSに引き抜いて、おいしいお弁当を作るべくやっていたら、お客さんの反応が見たいからと、コックさんがレストランを欲しがったんです。それでつくることにしました。

—だんだん、現在のEVENTOSの形になってくるのですね。

川中さん:最初につくった店舗が当たったもので、ホテルのコックさんを引き抜いては、多店舗展開していきました。うまくいっているときにありがちですが、内装なんかも後の店ほどお金をかけました。1996年から1997年にかけて、6店舗出す勢いで拡大していったんです。ところがそのころからどんどん退職が増えて、数年後にはコックさんはじめ、60人いたスタッフのうち53人がいなくなりました。

—えええ!それはもう、会社が解散くらいの事態では。

川中さん:おっしゃる通りです。

—原因はなんだったのですか。

川中さん:ホテルから引き抜いたコックさんたちにはそれぞれに、一緒についてきたスタッフがいまして、そのまま内部で派閥状態になったんです。ホテルごとに仕事の流儀が異なる上、引き抜くときに前職より少し上の賃金を提示する関係で、引き継がれた賃金格差が腕の良し悪しと必ずしも比例せず、大きな不満要因になりました。派閥同士のいがみ合いが生じて、経営側もそれをコントロールできなかった。

—なるほど。それにしても、60人中53人というのはすごいインパクト…。

川中さん:拡大路線が響いて赤字がかさんで、倒産寸前になっていてもなお、そこまでの危機感がない鈍感さでしたが、これだけのスタッフに辞められれば続ける術もありません。店を手放す踏ん切りがついて、結果的には良かったんです。借金地獄に陥った会社に、7人でもなぜ残ってくれたのか、むしろ不思議でした。でも、残ったから頑張るしかありません。

川中さん

業界の常識外のやり方で、“働きがい”を持てるよう

—どう頑張ったのでしょう。

川中さん:それまで、まともに“経営”なんて考えず、アドバイスも聞かず、イメージだけでやっていて、経営理念もありませんでした。なにせ一気に50人以上のコックやソムリエが辞めた会社です、地元飲食業界での評判は最悪ですから、経験者を中途採用するなど無理です。再出発するにも新卒をあたるしかない状況で、たまたま誘われた、中小企業で組織する団体、「中小企業家同友会」に、ヒントを求めて足を運んでみたんです。それがよかったんですね。

—ヒントに出会えたのですか。

川中さん:数字に裏付けされた経営をしなくてはならないこと、スタッフが、出勤するのが楽しいと思えるようななにかをしっかり持った会社にしなくてはならないことを痛感させられました。中小企業家同友会には2004年に正式に入会して、身を入れて学び始めました。いまがダメすぎて未来のビジョンを語るしかなかったこともあり、集中して経営理念を考え、まとめるうちに、それが求人のためのプレゼン資料となっていきました。

—新卒の採用は、うまくいきましたか。

川中さん:徐々に実を結んでいきました。リーマンショックで大企業が採用を控えたときは、80名もの学生が会社訪問に来てくれたんですよ。2008年には6人を採用しています。そこからは毎年、最低2名は、絶やさず採用しています。コロナで売り上げがなくなっても続けました。同期がいないと愚痴も言えないじゃないですか、なので必ず2名以上採るんです。

—現在は40名以上にまで増えていますね。

川中さん:そのうち半数以上が正社員で、8割近くが新卒採用、7割が女性です。

—どれも、飲食業界としては珍しいのでは。

川中さん:はい。業界の常識を知る人には、いろいろありえない部分が多い会社です。新卒にしろ、コックさんなら通常は調理師学校から採用しますが、うちは大卒の管理栄養士さんを独自に育てるなどしています。

—でも、興味のある若い人からすると、未経験でもチャンスがあって、業界ではそう多くない正社員として安心して働けて、業界のセオリーにはない発想を活かせるかもしれない職場。

川中さん:まさにそうです。それにいまは、人に喜んでもらえるというのを、働く上での一番の価値に置く子が多いです。社会に貢献、地域に貢献というところに意欲を持っている。

—食を通じた地域貢献、地域活性化もミッションにされていますね。食って、地域にとってキラーコンテンツですもんね。

川中さん:広島市郊外ののどかな場所で、まずは畑をやることにしたとき、女性のスタッフが多いし、ちゃんとしたトイレが必要だねと見積りを取ったら500万円したんですよ。トイレひとつに500万円なら、いっそレストランもセットでつくるかと、スパゲティー処としてオープンさせたのが「吉山BIANCO」でした。「この地域に食べ物屋さんは100年間なかった」そうで、 絶対に失敗すると言われました。つぶれたら町内の集会所にでもしてもらう気が、繁盛しましてね。おいしいものがあれば人は来るんだと実感しました。

—その後近くに「Oishi吉山」も。

川中さん:吉山BIANCOでは、最初は応援の気持ちでしょう、近所の農家のお年寄りが、食べたくもない(笑)スパゲティーを食べに来てくれました。そのうち地域外の人で入れないくらいの人気店になったので、育ててくれた恩返しにと、地域に何が欲しいかを聞くと、口をそろえて「産直市」と言われました。だから、産直市を備えたOishi吉山をつくったんです。農家さんの納めてくれる野菜は自前の飲食店でも使えることですし、異例の全量買取りにして、買取価格も高めに設定しました。産直市ではお客さんの顔も見えますし、とても喜んでもらえました。そうやって、地域の全農家さんと取引するようになって。こういう仕事はスタッフの喜びにもなると、また実感できました。

郊外という立地、そして平日のランチにもかかわらず、吉山BIANCOはこの日も満席だった。

のたうちまわりながらも、地域再生の横展開を目指す

—好循環の実例ですね。

川中さん:コロナ禍のあるとき、島根の江津市の市長さんから電話をもらったんです。うちの取り組みに注目して、Oishi吉山に視察にも来てくれていたらしく、江津市の有福温泉町の再生を任せたいと言われました。20軒の宿のうち17軒が廃業、小売店もダメという手強い地域でした。実際に入ってみるとさらに手強いとわかるのですが(笑)、地域においしいものがあれば人が集まってくるという確信を得ていましたし、市長直々の依頼で市のバックアップが期待できましたし、食を通じた、まさに地域貢献になりますから、挑戦することに決めました。

—それはでも、本当に手強そうです。隣県からとはいえ外部の人が地域と一体になってやること自体、一朝一夕にはいきませんよね。

川中さん:いやもう、すごいですよ。実際、都会のコンサルみたいのもいったん関与したみたいなんですけどね、全然ダメで。我々も完全なるよそ者として見られながらもなんとか。あれから3年、僕も半分はあちらに住んでますから。

—すごい、自ら汗かいてますね。

川中さん:汗どころか血反吐(笑)!「税金払えるまちになろう、投資に見合うリターンができるまちにしよう」って、のたうち回りながら言い続けています。いい食材はあるんですよ。うちは、ほど近い浜田港で水揚げされる魚介と地元の野菜で作るイタリア料理のレストラン、それにワインショップを経営しています。人が来なくなった地域ですから、自分たちがあらたな目的地とならないといけません。

—大仕事ですよね。

川中さん:はい。EVENTOSは、経済産業省の選定する「地域未来牽引企業」にもなっています。この再生事業を成功させることができたなら、横展開させたいんです。地元に、ワインを楽しむお年寄りが増えたら大成功ですね(笑)。

川中さんの発案により、有福温泉振興会の予算で灯した赤い提灯。独特の風情を演出している。

お話の引き出しの多い川中さん。エネルギーを感じる方だった。

「人生を過ごす価値のある会社」であるために

—バブル時代のころのご自分には、ご自身のこんな未来は想像できなかったですかね。

川中さん:ぜんぜんできなかったですね!「小金持ちの社長になりたい」と思っていたくらいですから。あの時代、(日産の高級セダンの)スカイラインに乗らないとモテなかったんですよ。僕も、中古だけど買いましたよ。社長になったらガソリン代が出せなくなって、僕の肩がシートからはみ出すような軽自動車に乗り換えましたけど(笑)。

—あはは。当時の川中さんが、いまEVENTOSの採用試験を受けたら受かったでしょうか。

川中さん:ダメでしょうね(笑)。だってなんでも、バブル期の教科書通りの若者でしたから。クリスマスには彼女にティファニーでプレゼントを買わねばならないとかね。社会に貢献どころの意識じゃありませんでした。

—人に喜んでもらえることを喜びに、という意味では、当時も彼女には喜んでもらったのでは(笑)。

川中さん:いや、結局全部自分のためでしたよね。自分のことしか考えてなかった。

—いまは、どんなときに喜びを感じますか。

川中さん:若いスタッフが、「うちの会社」と口にするのを聞くときですかね。

—そうかぁ。では、これから、どんな会社として存在されたいですか。

川中さん:人生を過ごす価値のある会社、ですね。そのためには、働きがいがなくてはならないし、働きがいを実現するためには働きやすさが必要です。では働きやすさをどう実現するかというと、ひとつは、儲かりやすい、シンプルな商品を持つことだと思うんですね。もっともっと技術を磨いて、食のプロ集団になって。

—シンプルな商品。

川中さん:娘が働く食品会社がそうなんです。多くの従業員を抱えながら、力のあるシンプルな看板商品ほぼ一本で、長く、無駄のない、そして人間的なビジネスを継続しています。素晴らしいなぁと。

—そうでしたか。

川中さん:娘には知的障がいがあって、障がい者枠の雇用なんですが、あたたかい職場だからでしょう、娘は、勤め先の会社も、商品も、大好きなんです。海外への家族旅行のとき、現地仕様のパッケージのその商品を見つけて、職場の人にお土産にすると言ってきかなくて。

—あらあら。

川中さん:「中身は同じなんだから誰も喜ばないよ」と何度言ってもダメでした。仕方がないのでスーツケースに詰め込んでたくさん持って帰ってね、もらった人たちの反応がどうにも心配でしたが、「とても喜んでくれた」とニコニコで帰って来ましたね。嬉しかったですよ。

—なんていいお話でしょう。

川中さん:うちは娘二人で、二人ともに知的障がいがあります。会社の経営の中でも、僕がいまのような価値観を持つようになったのは、娘たちの存在が大きいです。

—そうだったんですね。

川中さん:仮に大金を残せたとしても、親がいなくなった後に騙されたらおしまいですよね。お金は娘たちを守りきれないと思うんです。それより、人とのつながりの中でこそ守られるのではないかと。守られてほしいです。それが僕の、個人としての願いです。経営者としても、本来の意味でのいい仕事、いい会社を残したいと思っています。

イチオシ EVENTOSのじまんの人 向井茉莉さん&大山理子さん&縄稚ここのさん

(写真右から順に)2016年入社の向井茉莉さんは「Oishi吉山」の店長さん、大山さんは2021年入社の同副店長さん、縄稚さんは2019年入社の「吉山BIANCO 」の店長さん。向井さんと縄稚さんはツーリングが、大山さんはドライブが好きだというアクティブな女性たちです。仕事に対しても積極的で、EVENTOSの人材育成を象徴するような方々でした。&写真のようにチャーミング!(Oishi吉山にて)

向井さん:夫の地元ですが、ここで働くようになって地元の方との顔の見えるおつきあいが増えて、いまでは私の方が地域とのつながりが強くなりました。いまのように体を動かして働くのが合っていたんですね。楽しいです。ほかで嫌なことがあっても仕事で発散できています。元々考えすぎてしまうところがあったのですが、以前より広い視野を持てるようになって、そうなりづらい習慣が身についたとも自覚しています。Oishi吉山を、お客さんにも働く人にも、さらに魅力的にしていきたいです。

大山さん:大学では農業と食について学びました。就職先として全国の企業を見たのですが、あまりピンとこなくて、父親のお気に入りのお店として知ったOishi吉山で働くことにしました。人の意見に流されがちだった自分が、自分を持てるようになって、同時に、他の意見も受け入れられるようになったことに成長を感じています。今後この場が、食べたり買ったりにとどまらない体験を提供できる、コミュニティ施設のような役割を担えたらいいなと考えています。

縄稚さん:短大の先生に紹介されて、自ら野菜を作っていることや、若手が活躍しているところに魅力を感じました。見学のとき案内してくれた川中社長には、最初はコワい印象を持ちました(笑)。でも話を聞くうちに、尊敬できる人だなと。働くことを通して、なぜ自分の仕事が成り立つのか実感できるようになって、お客さん、地域や生産者さん、スタッフ…と、「ありがとう」の範囲が広がりました。地域活性化は一時のことではないので、信頼関係を維持しながら継続して、さらにはお店も増やしたいです。

編集後記

『キラリ』で取材先は、できる限り、従業員の方がやりがいをもって主体的に働いていらっしゃることを第一条件に、お声がけするようにしています。今回は、第46回のアイ・エム・シーユナイテッド » の今津さんが、「熱い社長さんです。すごいです。社員さんもビジョンを共有し、活き活きと取り組まれています」と推薦くださいました。EVENTOSには接待交際費というものがなく、いかにビジネス上のおつきあいであっても、会社からではなく川中さんのお財布から出すそうです。「自分のことしか考えてなかった」とかつてのご自身を語る方が、です。こんなことを言う生意気を許してもらえるなら、人はこうも、人間的に成長するものなのだと、しみじみと感じました。そしてEVENTOSでは、勤続30年になる、つまりは大量退職のときにも残った生え抜きの社員さんへの承継が、すでに決まっているそうです。(2024年9月取材)

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