キラリと光る会社
この土地にしかない仕事を喜びにすべく、ファーストペンギンになる

有限会社北室白扇

「そうめん」とあるものの、みんなが知ってる素麺よりずいぶん太い、「半田手延そうめん」。そうめん、ひやむぎ、うどんと名乗る麺の太さは、それぞれJAS企画で定められています。半田手延そうめんは、その規格には合致しない、徳島県のこの地域独自の乾麺です。つるりと喉越しよく、腰もある、おいしい半田そうめん。北室白扇は、200年とも300年ともいわれる歴史を持つ半田そうめんの作り手であり、地域の産業を守るべくあたらしい伝え方に挑戦する担い手です。
キラリと光る会社第48回は、北室白扇 専務取締役の北室淳子さんにお話をお聞きしました。

北室白扇公式サイト

太くなったのは下手だったから!? 愛され続ける半田そうめん

—半田手延べそうめんは、“素麺”と名がつくものの中で異彩を放つ存在ですよね。好きですけど(笑)。

北室さん:はい、お陰さまで「これがいい」と言ってくださるお客さまに支えられてきました。阿波地方で吉野川といえば、かつて現在でいう幹線道路のような役割を果たしていたんですね。江戸時代ともなればたくさんの物品が積まれた船が往来しました。この辺りは平らな土地が極めて少なくて、稲作に向かなかった。でも、河川の交通の要所があったために、いろんな材料も、情報も、手に入りやすい場所だったんですね。麺作りも早くから、おそらく三輪や小豆島との交流から伝わったといわれていて、どの家でも古くから作ってたんですよ。川があるので水車が回せるし、風土が適していました。自家需要で余ったのを米と物々交換することもあったようです。

—三輪も小豆島も素麺で有名ですもんね。でも一般的な、細い素麺ですよね。

北室さん:半田のが太くなった理由には諸説ありますけど、この辺の家々で手作りしていたので、最初はみんな下手くそだったんでしょうね。細いのを目指しても、道具も揃わないし。

—下手くそで(笑)。

北室さん:そうそう。でもここは讃岐にも近くてうどんも好きだし、太めがだんだん馴染んで定着して、「これがいい」となっていったのではないかと。

—いまは、選んで買う人たちが全国にいますよね。

北室さん:そうなんですよ、ありがたいことに差別化になっていて。細い素麺だと競争に飲まれて生き残れなかったと思います。先人に感謝ですね。JAS企画に合わせて細くすべきかとか、名前をひやむぎと変えるべきかとか、議題にのぼったときもあったのですけどね、結局、これが個性だろうと。

北室さん

時代の逆風。「私は後を継げずに潰してしまうのか」

—半田の中でもいくつかの製麺所がありますが、それぞれに製品にも個性があるものですか。

北室さん:ありますね。特に、どの小麦を選んで、配合割合をどうするかなどは、いわゆる企業秘密で、製麺所ごとに工夫がなされています。現在二十数社がやっているのですけど、それぞれに考える、腰や食味、色味の理想があるんです。もちろん、うちにもあります。小麦粉については非公開ですけど、塩はずっと、鳴門の塩を使っています。

—食べ比べも楽しそうですね。北室白扇さんは1977年の創業ですから、半田では後発なのでしょうか。

北室さん:始めたのは1932年、昭和一桁台なのですが、戦争を機にいったん途絶えたんです。実家が素麺業を営んでいた祖父が北室家に婿に入ったことで始めた家業だったのですけどね、戦中に機械を金属供出して失ってしまったし、人手もありませんでしたし、廃業せざるをえなかった。再開したのが1977年だったんです。

—そういうことでしたか。北室さんご自身は?

北室さん:私は、元々は調理師になりたかったのですが、そのときの実家の経済状況もあって、ちょっと厳しいだろうからとバスガイドを目指すことにして、高校卒業後に大阪の観光の専門学校に進んだんです。ところが阪神・淡路大震災の混乱で卒業まで就職が決まらなくて、そうこうしているうちに実家に戻って手伝う流れになりました。震災の翌年、1996年のことですね。

—以来30年弱、でしょうか、どんな思いで続けてこられたのでしょう。

北室さん:こんなに半田そうめんに対して執念深い人はいないと思いますね(笑)。

—と、言いますと。

北室さん:世の中には、もっと大変な仕事もあるだろうと思いますが、そうめんも大変なんです。毎朝4時起きの、骨の折れる仕事です。それでも、作れば売れる時代もあったんですね。それがバブルのころを境に、徐々に徐々に苦しくなっていきました。お中元、お歳暮の文化が廃れて贈答需要が落ち込んだことも影響しています。機械に投資した分の借金もあるのに、このまま下降の一途であれば続けていけないと思いました。私は後を継げずに潰してしまうのかと、いたたまれない気持ちになりました。世の中の変化をきちんと受け止めて考えていかねば、ただ作っていても立ち行かないのだと。

—具体的には、どんなことに取り組まれたのでしょう。

北室さん:異業種の人と積極的に交流を持ったり、外を見て勉強しながら、いま何がしたいのか、何ができるのか、何が求められているのか、自分たちのやっていることに立ち返って、きちんと考え見極めるのが大事だと、まずは心構えというか、向き合い方を変えました。パッケージを変えるとか、悪あがきをしたこともありましたけど、そういう小手先のことではないと気づくことができました。

工業デザインのはしりのような仕事をしている親戚がいらして、ロゴやパッケージを手がけてくれたのだそう。すごいグッドデザイン!

この地域で、この仕事で良かったと 思えるようにしたい

—お祖父さまのときからの家業で、思い入れも、あと、責任も感じていらしたのでは。

北室さん:そうですね。それも、うちだけではなく、この地域全体の行末を思いました。小学生のときから知っている人が多いですから。この地域に住んで、この仕事をしていて良かったと思えるようにしたいという思いが、私の中にずっと、強くあるんです。

—先ほど大変な仕事だとおっしゃいましたが、上回る魅力というか、やりがいも感じていらっしゃる。

北室さん:いろいろありますけど、生まれ故郷の地場産業ですからね、どこに行ってもあるとか、やれる仕事ではないですよね。しばりがある分、ずっとここにいて、親とも一緒にい続けて、ずっとここのことを考えていられました。結果的には、これが自分にとってのしあわせだったのかなと、いまは思っています。それと、自分たちの作ったものを売ることを通してお客さんとの交流が持てるのは、とてもいいものです。感動があります。

—ファンも多いのではないですか。

北室さん:他県からここまで、わざわざ買いに来てくださる方もいます。買いに来ることそのものを楽しみにしてお出かけくださったり、中にはファンレターをくださる方もいるんですよ。こういう人たちのために作らないとと、いつも思います。一緒にやってきた両親も高齢になって、私にとっていまは一番苦しいときだと思っているところですけど、仕事を“苦”にしたくはないんです。喜びにしたい。半田そうめん界全体がそうなれるよう、できることをしたい。「骨の折れる仕事」で終わらせず、心身に余裕が持てるようにして、お客さんとのタッチポイントをつくって一緒に楽しめるようにしたいんです。

練った生地を包丁で切る「手打ち」に対し、「手延べ」は、生地をねじりながら延ばし熟成させることを、途中で切ることはせずに繰り返す製麺法。熟成は気温や湿度にも左右されるため、ほとんどの工程を人の手によって注意深く行う必要があるといいます。

いつしか、飲食業にも観光業にも関わるように

—心身に余裕が持てるように。

北室さん:世代交代をどうするかは一大テーマです。若い人にも魅力的な仕事にするためには、あたらしい時代の働き方も必要ですよね。まずは週休3日制に挑戦しようとしています。心身を休めながら成り立たせる。誰かが成功しないといけないので、ファーストペンギンにならないといけないと思っています。

—おお。お客さんとのタッチポイントということでは、数年前からは、古民家を改装したゲストハウス「折目邸 遊懐(ゆかい)」と、そこでの「半田そうめん食堂」も営まれていますね。

北室さん:そうなんです。築100年の立派なお屋敷で。半田そうめんは、食べ方の提案になるようなメニューを考案して、やはりこの地域の伝統の、半田漆器の器を使ってお出ししています。

—北室さんが中心となって考えて。

北室さん:はい。不思議なもので、昔、進みたいと思った飲食業にも、その後志した観光業にも、ここへきて関わるようになったんですね。ずっと半田でそうめんを作っていたのですけど、縁あって。こうした活動を通じて、外の方とのあたらしい接点をつくりながら、地域と半田そうめんの魅力を伝えていきたいです。生まれ故郷であるこの地域を、少しでも活気づけられるよう頑張ることが、私の使命なのかなと。

「半田そうめん食堂」にて。この日はキムチを使ったメニューをいただきました。暑くなりはじめた5月に、なめらかつるつる、最高です。半田そうめんは、肉味噌などと合わせた和え麺にもぴったりで、和洋を問わず、アレンジのしやすさも魅力です。

イチオシ 北室白扇のじまんの人 竹田隆子さん

1985年入社の、北室白扇で一番のベテランで工場長。半田手延そうめんづくりの全工程を把握して、どの持ち場も担当できる方です。製造現場にお邪魔すると、竹田さんはじめ、みなさん軽やかで、「手際が良すぎて簡単そうに見えてしまう現象」でした。北室白扇は勤め先ではあるものの、「家族ぐるみのおつきあいです」とおっしゃっていました。

もう40年になりますから、ここに通って来るのが当たり前と言いますか。仕事もそんな感じでやってきました。自分たちで作るそうめんを、「おいしい」と言ってもらえるのは、やっぱりうれしいですね。小学生の孫も、「ばぁばのところのそうめんはおいしい」って言うんですよ。他のではダメだって言われると、うれしいですよね。特に夏場はよく、自分の家でもこのそうめんを食べますよ。毎日作っていますけど、食べるのに飽きることはないですね。そうめんは、この太さです、これが好きです(笑)。家で畑をやっているので、休みの日は畑にいることが多いですね。野菜や、さつまいもを作っています。そうめんも野菜も、自分で作るものはおいしいですよ。

編集後記

北室さんは、この土地の歴史や産業の成り立ちなど郷土史に非常に詳しくて、それを語り部としてすらすらとお話しくださる。さすがバスガイドを目指されただけある、とも言えますが、感心していると、「だって、それが“価値”ですよね」とおっしゃったのが印象に残りました。この地の歴史や風土の上に、半田そうめんという名産品が育ってきた。土地の物語は確かに“価値”です。本当に、その通りだと思いました。私は以前から半田手延そうめんが好きで、東京で求めることがありました。生真面目な製品から受け取る印象を手がかりに想像していた生産地と、今回実際に目に映ったその姿とに、ギャップを感じませんでした。でも、小麦の香りがたちこめるあの空間で、熱心に土地についてお話になる北室さんに出会えたことは、私たちにとって、訪れてこそ得られる価値でした。(2024年5月取材)

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