岩手県宮古市、海を臨む地で水産加工業を営む小が理(おがり)商店。大正元年の創業時には船を所有し自ら海に出ていましたが、加工専業に移行。100年を迎えた年に東日本大震災の津波により被災し、その5年後には台風10号にも見舞われるも、創業の地に店舗も併設し、営業を続けています。従業員は22名。新巻鮭、いかの開きや塩辛、塩うになどの商品に根強いリピーターを擁し、「小が理さんのでなければ」と言われると「調子に乗る」と、底抜けに明るい女将が語ります。
キラリと光る会社第35回は、小が理商店女将の小笠原信子さんにお話をお聞きしました。
—大正元年というと、1912年、110年以上前の創業ですね。そのころからこの地で水産加工品を製造・販売されていたのですか。
小笠原さん:最初のころはサケやマス、イカ釣りの船を持っていて、漁業のほうだったんですね。当時は業務用の冷蔵庫もなくて、魚が取れ都度一気に捌く必要があったものですから、処理のために待ち構えている女性たちもおおわらわです。だけどそのときだけなんですね。ほとんどは片手間で手伝いに来ている地域の女性たちではありましたが、その人たちに、年間を通して安定した仕事をつくりたいと創業者が考えたようです。サケ・マス漁の漁業権を売って冷蔵庫を設置して、毎日魚を小出しにして処理する加工業に転向しました。以来ずっと、水産加工でやっています。
—女性にとって貴重な職場だったのでしょうね。
小笠原さん:そうだったと思います。子どもを連れて来たりする人もいたようです。
—ところで「小が理商店」の、屋号の由来は、苗字の小笠原さんとなにを合わせたものなのですか?
小笠原さん:創業者が小笠原理三(りぞう)だったんです。宮古の小笠原一族がそれぞれに商売を始めたとき、ほかにも「小が由(よし)」とか、「小が孝(こう)」とか、各々の名前から一文字取って、本家の家長がつけたそうです。いまも続いているところと、ないところとあります。
—そうでしたか。歴史を感じますね。小が理商店さんは現在四代目とのことですが、長く続けられた秘訣はなんでしょう。
小笠原さん:代々長男がいて、後を継げたからじゃないですかね。
—あ、そういうことですか(笑)?長男さんたちは継ぐことが約束されていて。
小笠原さん:そうなんですけど、私たちの代になってからは、長男が「好きなことをしたらいい」と社長である父親から言われて、一度は教員になろうとしたんですよ。結局、築地で5年間修行したあと家業に入りまして、その半年後に津波に遭って会社が借金背負うわ、近年魚が取れないわで、かわいそうだと思ってますよ。
—長男さんも波乱ですね…。100年以上もやっていらっしゃると、いろんなことがあったとは思いますが、やはり東日本大震災が最大の試練ですかね。
小笠原さん:そうですね。ただ、うちは幸いにして、なにより人的な被害がなかったですし、この木造の建物も、車が壁を突き破ってはいましたけど、奇跡的に持ち堪えたんですよ。
—海がすぐそこのこの場所でしたら、相当な高さまで浸水しましたよね?
小笠原さん:2階の畳が浮きました。私は地震の揺れのあと、当時健在だった義母を連れて取るものも取りあえず歩いて避難所に向かいました。津波の直前、保育園勤めだった娘から電話がありまして、子どもたちを避難させているという話の途中でプツンと切れたんですね。保育園は(17m超の津波に襲われた)田老地区だったものですから、娘はダメだったのかなと思いました。こちらもこちらで、年老いた義母の歩みに合わせて避難していましたから、娘も私たちのことを同じように思っていたと後から聞かされました。避難先の小学校から見た、船が空を走るような不思議な光景が目に焼きついています。
—娘さんが無事だとわかるまでのご心労を思うと…。何よりでしたが、本当に大変な経験をされましたね。
小笠原さん:はい。でも、ご近所は全壊も多かったのに、うちは直すことができて、仕事も2〜3ヶ月で再開しましたから、ありがたかったです。−40℃と−28℃の冷蔵庫があるんですけど、密閉されていて、かつ真空パックの商品なんかも中にあったもので、津波のあと、落ち着いてから見に行ったら結構無事だったのにはびっくりしました。避難所に持って行って、焼いて食べてもらうと喜ばれましたね。
—避難所で…。いやぁ、それは喜ばれたでしょうね。
小笠原さん:そうですね、よかったです。私が隠し持っていた一升瓶なんかも無事だったんですよ。こんなときにお酒はどうかな…と躊躇する気持ちもあったのですけど、こんなときだからこそ慰めになるのではと考え直して、窓から家に入って回収しましてね、のんべえ代表としてこれも避難所に持参して、ちょっとずつ振る舞って、やっぱり喜んでもらえました。
—のんべえ代表として。それはそれは(笑)。
小笠原さん:それからは、ボランティアさんからも助けてもらいながら、従業員と一緒に、ぐちゃぐちゃになった仕事場の片づけです。支給していただいたお金もありましたけど、全部をまかなうにはとても足りなかったので、初めて借金をして、いまも返済を続けています。
—年々漁獲量も減っていると聞きますし、大変ですよね。
小笠原さん:きついですね。サケもイカもサンマも…、これほど魚が取れなくなったことはないのに、油(燃料)も資材も全部値上がりしていて、本当に大変な時代がきました。だからといってその分値上げするのも、買ってもらえなくなるんじゃないかと怖くてなかなか。
—さきほど「かわいそう」だとおっしゃいましたが、本当に、専務さんは家業に入ってから苦難続きですね。
小笠原さん:いまとなっては教員のほうが良かったのではないかって、よく思いますよ。でも頑張ってくれてはいます。
—お向かいで、やはり大正時代に創業した浜田漁業部さん » とは、専務さん同士が同級生なんだとか。女将さんには、「小さいころからかわいがってもらった」と、昨晩市内の居酒屋さんで小が理商店のイカをいただきながらお聞きしました。
小笠原さん:あら!あちらはね、うちと違って上品で、ちゃんとしてるでしょ。
—こちらもちゃんとしてるじゃないですか。
小笠原さん:いやいや私なんか頭からっぽ。濱田さんのところは奥さんもおきれいで、お茶をなさっていてね。お茶はこう見えて私もやるんですけどね。ははは。
—なんて答えるのが正解ですかね(笑)。さておき、浜田漁業部の専務さんからは、「小が理さんは社長も専務も控えめでシャイだけど、女将はじめ女性陣はすごくパワフルですよ」とお聞きして来ました。
小笠原さん:ははは!先代の女将、私の義理の母ですが、働くのが好きな働き者でした。私はそれほどでもなかったのに、社長だった義理の父が、魚の買い付けから値付けから、商売を一通り私に教えてくれたんですね。息子より嫁の方が、はいはいって言うことを聞くから教えやすかったんじゃないですかね。それが最初の間違いですよ。
—ええっ、間違い?
小笠原さん:「わかりました。はいはい」って口では言いながら、わかったふりだけしてたんですね。
—あはは!なんでですか?
小笠原さん:結婚前はこの辺では大きな病院の事務をしてまして、ハイヒールとスカートで、しゃなりしゃなりと歩いてたんですよ。それが嫁にきたら現場に入るのにズボンじゃないとダメだとか言われるでしょ?心の中では反発してたんですね。
—あぁ、いまでいう現代風のOLさんで、シティーガールだったんですね。
小笠原さん:そうそう!見栄えもいまよりちょっとかマシでしたしね。よく、事務所の女の子に「ちゃんとお化粧したほうがいいですよ」って叱られるんですよ。今日も顔洗ってそのまま来たら、写真撮るんでしょ?あとからお化粧してきますから、それをお願いしますね。
—はい、そうおっしゃるなら、変身後に(笑)。
小笠原さん:東京の人みたくなって来ますからね。ビフォア・アフターで載せる?
—あははは!やっぱり女性陣がパワフルである様子ですが、従業員の方の男女比はどれくらいですか?
小笠原さん:半々くらいですね。下は2年前に水産高校出身の女の子が入ってきてくれました。上は70代までいて、働くことが生活の張りになっているようです。
—老若男女いらっしゃるんですね。
小笠原さん:水産全般、若い人にはなかなか入ってもらえなくて、水産工場での働き手にも外国の方が増えました。そうした人たちの人生を引き受ける責任の重さを思うとどうしても思い切ることができないものですから、うちはいまのところ日本の人だけでなんとかやっています。
—なるほど、そうですか。先ほど、保育園から避難したというお話に出てきた娘さんも、いまはこちらで働いていらっしゃるのですね。
小笠原さん:お店のほうにいます。書くことも好きなもので、インスタにあれこれ投稿してPRもしてくれています。
—ご家族総出ですね。
小笠原さん:そうですね。でもやさしいのは社長だけ!昼は事務所で真面目にやってる私も息子の奥さんも、本領発揮するのは夜の部ですからね。
—のんべえだって、自らおっしゃってましたもんね。
小笠原さん:絶対つぶれませんよ。
—すごそう…(笑)。でも確かに、商品のラインナップを見ると、経営者がのんべえなのが滲み出ているというか、のんべえだからこその商品が多いですね。
小笠原さん:そうでしょう。(東京の有名店の)「賛否両論」の笠原将弘さんがうちを贔屓にしてくださって、「たら味噌」というコラボ商品もつくりました。宮古にはお土産として買えるものが少ないと思っていたので、やっぱり、いい酒の肴をと。
—おいしそう。
小笠原さん:「たら味噌」はごはんにもいいですし、麺に使えばジャージャー麺になる万能味噌ですよ。
—万能だけど、女将さんには酒の肴。
小笠原さん:そうそう。
—日本酒ですか?
小笠原さん:なんでも飲みます!まずは「ハイボール濃いめ」で始まりますよ。
—濃いめで。
小笠原さん:濃いめね。
—ご苦労なさっても、明るくパワフルこの上ない女将ですが、このご商売をされていてよかったと思うことは?
小笠原さん:お客さんから「おいしい」って言ってもらえることに尽きますね。小が理でないとと言ってくれる人もいて、「ここのが一番」と聞くと調子に乗ります。電話で注文を受けていると、声の調子で「気が強そう」だって言われたことがあるんですよ。上品に対応しているつもりなんですけどね、魚屋だからついつい、出ちゃうんでしょうね。
—シティーガールのはずが。
小笠原さん:そうなんですよ。
—でも察するに、味はもちろんですが、女将さんやみなさんの、お人柄にも惹かれてリピートされるお客さんも多いのでしょうね。
小笠原さん:人柄はどうかわかりませんけどね(笑)、味には自信があります。ここは常に考え続けるのが大事ですね。添加物なんかを使わずに昔ながらの製法で仕上げるのが小が理商店流ですけど、伝統のものだけでなく、笠原シェフとのコラボ商品のように、いままでになかったおいしいものも考え続けるんです。若い人が買いに来てくれると嬉しいですしね。
—若い人が買いに来ると。
小笠原さん:昔はね、お母さんだけが買いに来たものですよ。いまはご夫婦で来るでしょう。それを見ると嬉しくなりますね。お子さん連れで長く通ってくださる方もいて、よその子でも成長する姿を見ると、やっぱり嬉しいですよ。微笑ましいっていうの?宮古は水産のまちですから、若い人にも魚をおいしいと思ってもらえるのが一番ですよ。
—小が理商店さんのおいしい理由がわかった気がします。
小笠原さん:そうですか?次は夜の部に来てくださいよ。飲んで歌って踊りますよ!
—ちょっと怖い気もしますが(笑)、ぜひ来たいです。女将が隣に座っただけで5千円?
小笠原さん:はははは!
このコーナー、「弊社で話し合い、添付の『小が理商店』看板と致します」とのメールをくださったのは、本文中にも登場する専務の小笠原理一さんでした。東日本大震災では、すっかり津波を被るもびくともせず、いまも現役で、夜には中の電球が、この屋号を堂々と照らし続けているそうです。被害の凄まじさは写真からもうかがい知れますが、プラスチック製にもかかわらず、確かに看板は無傷であることがわかります。何かを感じずにはいられません。
たくさん笑わせてもらいました。表情豊かに、身振り手振りも加えながら、よく笑いお話しくださる女将でした。「夜の部はこんなもんじゃない」らしいですが(笑)、食べるものをお客さんに提供されるご商売にぴったりの、つまりはサービス精神旺盛な方なんですよね。取材の終わり、「ちょっと待っててくださいよ」と奥に行かれ、ややすると、おいしそうなおにぎりを乗せたお皿を手にしていらっしゃる。「ちょうどお腹も空くころでしょう」と、ふんわりにぎってくださったほかほかおにぎりには、贅沢にも小が理商店自慢の塩うにが、中にたっぷり入っていました。おにぎりって、どうしてこんなにおいしいのだろうとしみじみ思わせる、人生何度目かの経験でした。あぁ、忘れられない、あのおにぎりの味。海の町でいただく海の味の滋味、最高だったなぁ。(2023年6月取材)