創業大正5年(法人化は昭和40年)の漁業会社で、現社長が三代目。人力で進む櫓(ろ)漕ぎのイカ釣り船から始め、時流に合わせて変化しながら、昭和53年以降は本格的な遠洋マグロ延縄漁業を行っています。会社が所在するのは岩手県宮古市。東日本大震災の津波では、かろうじて流されず残りました。現在は、マグロの品質を保つ最新の技術を搭載した第88清福丸を含め、379トン型3隻の延縄船を所有。大切な海の資源を守りながらおいしさを届けるため、環境が厳しくなるばかりの業界の荒波を、家族総出で乗り越えて来ました。
キラリと光る会社第21回は、浜田漁業部三代目社長の濱田雄司さんと、その息子さんで四代目にあたる、専務の善之さんにお話をお聞きしました。
—早速ですが、経営者であるおふたりは漁師さんだったことはないのでしょうか。漁業関連の会社では一般的ですか?
雄司さん:初代と二代目は船に乗ってました。経営に専念するようになったのは三代目の私からです。この世界では、成功を収めるとすぐに船から降りて水産会社などを立ち上げたるケースが多いので、まぁ、一般的ですね。
—そうなんですね。
雄司さん:初代は帝国海軍出身でした。明治時代のことです。私は婿養子で濱田家に入ったのですが、私の義理の母で、初代の娘にあたる現会長の話だと、初代はなかなか立派な人だったそうですよ。それなりの家の出だったようですが、次男だったので働き口が必要だったんですね。当時は家を継ぐ長男を除いては、外に働きに出なければならなかったもので、海軍出の漁師は珍しくなかったらしいです。富山出身なんですけどね、海軍時代に宮古湾でイカがいっぱい揚がるのを見て、漁師になろうと思ったと。
—おぉ、それで宮古に。最初はイカを獲っていたんですね。
雄司さん:櫓(ろ)漕ぎの原始的な船で釣ってました。
—人力の船で。
雄司さん:そうです。その後、サメ、サケ・マス、サンマ、それにマグロと、時代に合わせていろいろ。遠洋マグロの延縄(はえなわ)漁 ※1 に落ち着いたのは二代目のときですね。
—漁法も違って、大きな転換ですよね?
雄司さん:はい。時代時代で、お金になるよう考えて。
—漁業を取り巻く環境が厳しくなったとは聞きますが、ずいぶん変わりましたか?
雄司さん:それはもう。
善之さん:うちみたいな日本のマグロ船が、昔は1,000隻くらい操業してたのが、いまでは180隻前後ですからね。全世界の刺身用マグロの3分の2は日本で消費されているんですよ。でも輸入もののほうが多いんです。日本の船が獲っているのは、そこに養殖マグロを含めても3分の1くらいですね。
—1,000隻から180隻というのは、ずいぶんと減りましたね…。
善之さん:簡単に言うと、以前は世界中いろんな国の周辺の海で獲らせてもらえたのが、いまは各国が自前で船を出して獲って、日本に輸出しているんです。あちらにしてみればそのほうが儲かるので、仕方のないことですね。
雄司さん:各国との取り決めは、外交のいろんな絡みが反映されるものです。一般の人にはそういったイメージはないでしょうが、漁業も、水産関係に限らず国際情勢に敏感にならないと、先行きが読めない商売なんですよ。事実上締め出された海域もありますしね。
※1 マグロ延縄漁法は今から250年以上前に千葉県房総沖から始まった日本の伝統的な漁法。延縄は、太い幹縄(みきなわ)に、暖簾状に多数の枝縄(えだなわ)を垂らした漁具。それぞれの枝縄の先に取り付けた釣り針に餌をつけて獲物がかかるのを待つ。目的としないほかの多くの魚も獲れてしまう網漁に比べ、一定以上の大きさのマグロだけを釣り上げることから、海洋資源の保全上の長所がある。
—そうかぁ。ここでひとつ疑問があるのですが、同じ魚を、日本船が獲るメリットはあるのでしょうか。
雄司さん:品質ですね。処理技術が高く、つまりはよりおいしいマグロをお届けできます。
—日本には生食文化が根づいてますから、そのあたりは納得です。浜田漁業部さんの船は、その中でも最先端の技術を搭載しているんですよね?
善之さん:そうなんです。それによって、見た目も味もいい「極洗マグロ ※2」という自社ブランドのマグロの開発が実現しました。
—そのマグロはどこで食べられるのですか?
善之さん:それがですね、うちも把握できてないんですよ…。
—え?というのは、もしかして、どこのマグロも一緒くたになって流通するのですか?
善之さん:まさにそうなんです。日本の船から水揚げされたマグロは全部「国産マグロ」として、通常まとめて流通するんです。残念なことに船とは紐付いていないんです。
—でも、浜田漁業部さんでいち早く導入した、最先端の技術で処理されたマグロなんですよね?
善之さん:そうなんですよ。
—すごい装置の搭載で、コストもほかよりかかっているんですよね?
善之さん:はい。
—ええぇ…。それなのに?もったいない。
雄司さん:これは私たちにとって非常に大きな課題なんです。農業もそうですよね。個別の農家さんがこだわって育てても、例えばきゅうりなら「岩手産きゅうり」のみの表記で売られるじゃないですか。牛乳もそう。複数の生産者さんのが混ぜられてパック詰めされてる。中には直接販売をおこなったり、ブランド化に成功しているところもありますが、ごく一部です。うちも差別化、ブランド化をはかろうと数年前からいろいろ働きかけてきたのですが、獲る側が流通や加工に携わるのは漁業の場合さらにハードルが高くて、いまひとつうまくいっていません。
—なるほど…。言われてみれば、そうしたことを意識もしないで、ただおいしいとかイマイチだとか言って食べてる私たち生活者も、チコちゃんに叱られそうです。日本の船が獲れば、世界中どこの海で獲ろうと「国産」になるんですよね?それひとつとってもですが、知らないことが多いです。
※2 現在は加工の仕方を変更しています。
善之さん:それを言うと、その日本の船に乗って実際にマグロを獲っているのも、いまはほとんどインドネシア人なんですよ。
—そうなんですか!ほとんど?
善之さん:はい。うちもですし、ほかも同じです。漁に出て10ヶ月戻らず、2ヶ月休むという仕事ですから、日本人にはなかなかなり手がいないんです。インドネシア人の乗組員は真面目で働き者だし、マグロの遠洋漁業はいまや彼ら抜きでは成り立ちませんね。ほかの国の方も何度か採用したのですけど、どうしてか、インドネシアの方がこの仕事に合うようです。彼らの国の平均年収の何倍かを手にできるというのもあって、家族や親戚のためにも、一生懸命働いてくれます。
—そうでしたか。マグロが私たちの口に入るのも、インドネシアの人たちのおかげなのですね。
善之さん:実はそうなんです。
—借金が返済できないと「マグロ漁船に乗せるぞ」みたいなのは…。
善之さん:よく言われますよね(笑)。実際には都市伝説的な。
—そうなのか(笑)。若いころニュージーランドに住んだことがあって、レストランバーのようなお店でバイトしていたとき、何ヶ月か振りで陸(おか)に上がった日本のマグロ漁船の漁師さんがお客さんとしてやって来ては、いっぱいチップをくれました。スタッフの人気者でした。
善之さん:あ、それはうちの漁師さんかもしれませんね(笑)!ほとんど船上生活なので、たまの街ではお金をパーっと使う人が多いのは確かです。
—そこはイメージ通りですね(笑)。
善之さん:そうですね。
—浜田漁業部さんは、イカ釣りの時代を除けばずっと延縄漁なのですか?
雄司さん:いや、マグロになってからですね。北洋でサケ・マス獲ってたときなんかは流し網漁法でした。まさに一網打尽にするんで、海洋資源の持続可能性から見ると太く短い漁法ですよ。これも会長の話によるとですけど、サケ・マス漁の最盛期は、大量に獲れてずいぶん儲かったらしいです。この辺で一番税金納めたときもあったとか。じきに200海里問題※が出てきて、そう長くは続きませんでした。いまはもう、生かさず殺さずのサラリーマン漁業ですかね。
—現在までには実際、多くの同業者さんが廃業したわけですよね?続けていらした浜田漁業部さんとしては、どんなところにやりがいを感じていますか?
雄司さん:ない!ほとんど大変なことばかり。
—あ……。
善之さん:いや、僕は感じてますよ!曽祖父から続いてきた家業だというのもありますし、皆さんがよく知る大間のクロマグロ(本マグロ)のようなマグロは全体のほんのわずかですから、我々が届けないと、マグロはほとんどの人の口に入らなくなりますよね。少なからず使命感があります。日本船の高い冷凍技術で、本当においしいマグロを送り出しているというプライドもあります。それに漁業って、かなり裾野が広いんですよ。例えば僕らのマグロ船をつくる造船会社や、釣り針を製造する会社なんかは、二社ずつしか残っていません。そうした状況にある日本の漁業自体も守っていきたいですよね。
※それまでは事実上、どこの海でも自由に魚を獲ることができたが、1977年にできた国際ルールにより、各々の国から200海里(約370km)内で、他国の漁船が断りなく操業できなくなった。
—造船も釣り針の会社も残り二社?それは死活問題ですね。万一造船会社がなくなってしまったらどうなるんですか…?
善之さん:外国船を買うしかないですね。
—日本の船と違いますか?
雄司さん:これは違う。日本の船は世界一丈夫。荒波に強いんです。すごい技術ですよ。値段も違いますけど、それだけの価値があります。
善之さん:本当にすごいんですよ。職人さんの板金技術で、人の手でつくっていくんです。芸術品みたいですよ。
—へぇーー。見てみたいです。一度失ってしまうと取り戻せない技術ですよね。それにしても、では、日本のマグロ漁というのは、実はものすごく脆いところで成り立っているんですね。
善之さん:その通りなんです。
雄司さん:いまは台湾のほうが、船を倍持ってますからね。獲ったマグロの、ほとんどすべてを日本に卸しています。船も人件費も安いので、競争力があります。
—価格では敵わないのですね。
雄司さん:さらに厳しいことに、魚別の市場価格にしても、マグロとカツオだけが、実は下がっているんです。マグロとカツオはまた、肉もライバルになりますし。
—魚離れというのも聞こえてきますもんね。そうか、赤身同士、肉もライバルに。
雄司さん:カツオ船については、以前の140隻から30隻まで減っているんですね。マグロはいま180隻。これがさらに50隻になるときっと、今度は違う展開が見えてくるだろうと思うんです。だから息子には、最後の1隻になってもやれと言ってます。それまで関連する会社がもつかどうかの問題はありますけどね。
—なるほど…。社長さんは、着眼点がなにかこう、鋭いというか。
雄司さん:外から来た婿だから。以前は鉄鋼業界にいたんですよ。なので別の観点から漁業の常識を疑えたところがあるんです。後を継ぐのが当たり前のようにして育った息子も、大学卒業後、まるで関係のない東京のアパレル会社に就職しました。水産ばかりを専門に学ぶよりいいと思って見てましたよ。
—その柔軟さで、これまでもさまざまなことを乗り越えていらしたんでしょうね。乗り越えたといえば、東日本大震災もご経験されてますもんね。
善之さん:震災の当日は、ふたりとも出張で東京にいたんです。ここは事務所のある二階の床まで浸水して、蔵も壊れたけど、幸い家族はみんな無事でした。ちょうど10ヶ月の漁を終えて日本に戻ってきていた船も、沖で待機して難を逃れたんです。水揚げできないと一年がすべて無駄になってしまっていたので、そこでも命拾いしました。避難所には行かず、水も電気もない生活はしばらく続きましたね。
—大変な被災地でしたものね…。こうして地元で変わらず事業を継続されることが、復興の、なによりも力になりますよね。
善之さん:震災のとき、避難していた人が久しぶりに刺身を食べて「こんなにおいしいのか」と、あのときの味を忘れられないと言っているのをなにかで見ました。それを見て、刺身はやっぱり、日本人の舌に染みついた味なんだなと思いましたね。これからもおいしいマグロを届け続けたいなと。
—そうですね。生まれてから何度となく味わってきた味ですものね。ところで濱田さんは、マグロをしょっちゅう食べているのですか?もう食べ飽きたということはありませんか?
善之さん:いえいえ、食べる頻度や量はたぶん、一般の人と変わらないんじゃないかな。ただやっぱり味にはうるさいというか(笑)。スーパーにあるのはだいたい外国産だから買わないです。「天然じゃないと」とも思ってますしね。お寿司屋さんではマグロを頼みますよ。いつ食べても「あぁ、おいしいなぁ」と思いますね。
昭和4年生まれ。ご本人曰く「富山の大空襲の生き残り」。浜田漁業部入社は昭和30年!ずっと会社の事務を担ってきた。役職というより呼び名として「会長」。乗組員からは「大女将」と呼ばれているそう。お若くてびっくり!
終戦直後は(戦時中は漁どころではなく獲らないため)魚がウヨウヨいっぱいいたんですよ。嫁いで来てから、家事も子育ても一切をお手伝いさんに任せて事務所に入って、ずっと働いてきました。いっときは儲かっても、税金を払うのに苦労して、安定したことはほとんどありませんでしたね。サケ・マスをやってたときはそれで儲けて、別に始めたマグロ船の赤字を補填しながらつないでました。それでもあのときマグロをやっていたから、いままで会社を続けられたんですよね。おかげで社歴は65年ほどになりました(笑)。
とにかく、知らないことが多いとわかりました。マグロを知らない日本人はいませんが、どのように皿の上に乗るにいたるのかを、漁を取り巻く実情を、これほど知らないとは。資源の枯渇も指摘されるいま、そうしたことに興味を持ちながら、もっともっと、ありがたく感謝していただかなくてはと思いました。ご家族で切り盛りされている浜田漁業部さんですが、発信にも熱心に取り組まれています。遠洋マグロ漁について、マグロについて、その知られざるストーリーを、ブログや、『aranami』というとっても素敵なフリーペーパーで伝えています。期間限定で販売されていた独自ブランドの「極洗マグロ」を運良く購入できた私たちは、そのお刺身のおいしさを味わいながら、おかげさまで海の上で働く人にまで思いをはせることができました。(2019年7月取材)