1962年、大阪府和泉市に創業。堀田カーペットは、ここ四半世紀で、一般家庭を中心に使用が激減したカーペット、その中でさらに貴重なウールのウィルトンカーペットを製造しています。工場では、1800年代に開発されたウィルトン織機が圧巻の存在感。しかし製造の主役は機械より職人だという発見もあります。三代目の堀田社長は、トヨタ自動車を経て2008年に入社、2017年に代表取締役に就任。ご自宅を「カーペットの家」として公開するなど、カーペットとある暮らしの良さを広く知ってもらおうと尽力しています。
キラリと光る会社第31回は、堀田カーペット代表の堀田将矢さんにお話をお聞きしました。
—カーペット、気づいたときには暮らしの中から消えていました。
堀田さん:ですよね。1980年代には新築する家の床面積の20%程度に使われていたのですが、現在は0.2%です。100分の1に激減しています。
—体感としてですが、わかる気がします。堀田カーペットさんの製品が現在使われているのはホテルなどでしょうか。
堀田さん:うちの売上でみると、4割がホテルやブティックなどの業務用ですね。残りの6割は、自社ブランドを、工務店や家具や雑貨のセレクトショップで扱ってもらっています。
—ウールのカーペットは、実は夏でも暑くないし、快適なんだと知って、シンプルで良いものがどこならまとめて見れるのか検索したのですが、イマイチわからず。大きな買い物ゆえしっかり検討する必要があるのに、ウールに限定して探すと多くは見当たらなくて。
堀田さん:それだけ少ないんですよね。ずっと、日本におけるカーペット文化が途絶えてしまうという強い危機感を持ちながらやっています。
—廃業したメーカーも多いと思いますが、御社が続いているのはどういった強みからなのですか。
堀田さん:業界の潮流に乗り遅れたからというのが最大の理由でしょうね。カーペット全盛のとき、みんな量産化に切り替えたんですよ。あたらしい機械を導入して、化繊でどんどんつくったんです。うちはお金がなかったので、そういうことができずにいたから、結果として価格競争に巻き込まれずに済んだんです。
—あぁ、量産できない代わりに、いいものをつくり続けたんですね。
堀田さん:はい。いいカーペットとはどんなものか突き詰めると、長く美しく使えるという基本にかえるんです。そこに忠実にやろうと。自社ブランドに切り替えたりと、開発の歩みを止めなかったのも良かった。いまは、自分たちがつくるべきものをつくっていこう、という方針で開発をしています。
—そうお聞きすると、大変良いポジションにいらっしゃいますね。
堀田さん:ただ、そうやって自分たちだけが生き残ればいいかというと、全然そうではないんです。僕らは、自分たちだけで成り立つわけではなく、関係する会社があるからものづくりができています。だからこそ、産地全体で生き残っていく必要があります。業界全体の衰退というのは、本当に厳しいものです。
—あぁ、以前、マグロの遠洋漁業に携わる会社でお話を聞いたとき、同じことをおっしゃっていました。日本で最後の一隻になってもやるつもりではいるけど、自分たちがいまのクオリティを保ちながら続けるに欠かせない、国産の造船も、延縄漁法の釣り針の製造も、できる会社が数えるほどになっていて、高度な技術を要するのに職人は高齢化の一方だって。産業が衰退している以上、取り巻くありとあらゆる事業が風前の灯だとお聞きしました。
堀田さん:まったく同じですね。やれることはなんでもしないといけないと思っていますが、状況はかなり厳しいです。
—お使いの機械も、そうそう替えの効かないものなのですよね?
堀田さん:使っているウィルトン織機(しょっき)は、もともと18世紀の、イギリスの産業革命時代に開発されたものです。うちのは50年前の日本製で、いまはもう生産されてません。生産を続けているメーカーは、世界的にも残すとこ数社という状況で、買い換えるのは現実的ではないです。メンテナンスを繰り返しながら使い続けています。
—メンテナンスといっても、メーカーに電話して…とかはできないのですよね?
堀田さん:電話する先がないので(笑)。職人が、毎日機械の調子を見ながらセッティングするんです。古いものだしどこかしら悪いところがあるんですよ。致命的にならないよう、その悪いところに気づくことが大事。ちょっとずつ必要な修理をしながら、製品の品質を維持しているという感じです。
—生き物みたいですね。それにしても、修理も自分たちでするんですか。
堀田さん:僕らも、機械のことを理解していないといけません。図面もないし、もちろんパーツの取り寄せもできないので、近くの鉄工所に相談に行くなどします。メンテナンスの費用は、年間1〜2千万かかりますね。それでも、壊れ切ることはなかなか考えにくいのが、アナログの機械ならではですね。
—アナログといえば、御社のサイトを見て機械以上に驚いたのは、思っていたよりずっとたくさんの工程を、それもかなりの部分、人の手で作業しているという点でした。ペルシャ絨毯のようなものは別にして、カーペットって、工場の機械から出てくるイメージでした。
堀田さん:大体の人がそうおっしゃいますね。実際、手工芸品ではないんです。でも、機械のほうが職人の手伝いをしていると言うのが近いと弊社職人は言います。機械が補ってる。工程によっては、5年やってなんとなくわかって、10年で一人前になれるかどうかという職人仕事なんです。
—知らないことばかりのカーペットの世界ですが、堀田さんご自身は、ずっと思い入れあって、継ぐおつもりだったのですか。
堀田さん:いやー、ぜんぜんそのつもりじゃなかったですね。北海道大学に入学することになってひとり暮らしを始めるときも、絶対フローリングがいいと思ったくらいで(笑)。
—あはは。卒業後は、いったんトヨタに就職されてますよね。
堀田さん:トヨタ、楽しかったんですよ。サラリーマンに戻るならトヨタがいいといまでも思います。2006年に親父から電話があるまでは、辞めようと思うことはなかったです。電話で、「継ぐか継がないかだけ決めてくれ」って言われました。にわかに、30年後とか、長い目で見たとき、トヨタでどうなれるだろうと考えてみたら、「運だな」と思ったのと、親父と一緒に働いてみたいと思ったのと。……でもまぁ、ノリっす!
—おおお(笑)。ノリで。
堀田さん:そうそう、あのときのことは、ノリというのが一番正しいですね。最後はパッと決めました。
—実際に家業に入ってみて、お父様と働いてみて、どうでしたか。
堀田さん:しんどかったです。7年間、対親父で、決裂こそしませんでしたけど、まぁ、しんどかったです。トヨタでそれなりに揉まれてきたと思ってたし、経験やスキルを活かせると思ってたのに、まるで違って、何ひとつ活かせなかった。
—何ひとつ。仕事内容が違いすぎたということですか。
堀田さん:ここはトヨタのすごいところで、自分はできると、いい感じに勘違いさせてくれてたんですね。「これにかけてはオレだろ」みたいに、仕事ができると勘違いできているからやる気になって、評価にもつながってたんです。でも、片やあのような巨大組織です、先に課題があって、それに対する正しい解を探す訓練はできても、「自分はどうしたいのか」の問いを立てるところから始める必要はなかったんですよね。ここでは答えはなく、「どうしたいのか」を考える連続。流れの中でやってきた僕には、一番苦しい時間でした。
—うーん、確かに、それには多大なエネルギーが必要そうです。それを7年間も。
堀田さん:ですね。いわゆるブランディングが必要だとは思っていたのですが、何をどうすべきかもわからない中、中川政七商店の中川淳さんとの出会いがあって。淳さんに、とにかく、どうなりたいかを問われ続けました。あれは大きかったです。どうなりたいかに対して、結果を積み上げていく。なりたい姿が見えてきたら、手段には迷っても、心は晴れていました。
—それは、救われたというか、力が出やすくなりましたよね。
堀田さん:はい。ずっと苦しかったので、めっちゃ楽になりました。立ち上げた新ブランドは、絶対いける自信があって、結果としても順調にスタートできました。
—苦しさは、いまはやりがいに変わりましたか。
堀田さん:カーペット文化、産地の衰退に抗おうと、小さな打ち手はたくさん打っても、決定打にならない苦しさはずっとありますよ。でも、残したいと思うものをつくれている。やりがいは、めっちゃあります。自分たちが心から良いと思うものをつくることができるのはしあわせなことですね。
—良いと思うものを伝える一環として、カーペットを敷き詰めて暮らすご自宅も、ショールームとして開放されてますね。
堀田さん:はい。とにかく床材としての良さを体感してもらう場が欲しくて。ただ、自宅を公開して自ら案内するって、件数が多くなってくるとどうしたって無理があるので、別拠点をつくるべく、ちょうど170坪の土地と建物を購入したところです。
—おお、それはまた楽しみですね。
堀田さん:見学はもちろん、宿泊も可能にして、カーペットの空間を体験してもらうのと、あと、物販も考えてます。ここも大事な点で、ちゃんと収益を上げてビジネスモデルとして成り立たせて、ほかの地域に展開させたいんです。僕らのものづくりは量に限界がある一方で、ある程度たくさんつくらないと関係各社が潤わない。むずかしいところですが、カーペットの良さを伝えるという同じ目的でも、つくる以外の領域を開拓する必要性に考え至ったんですね。
—自社だけでも簡単ではないのに、業界のことを同時に考えていかないといけないのですもんね…。
堀田さん:難易度は高いですね。例えば、カーペットの敷き込みの施工って、特殊技能なんですよ。これも職人がめちゃくちゃ減ってる。
—これもまた、ただ敷くのだと思ってました。
堀田さん:ラグのようなタイプだとそうですけど、敷き詰めて固定するタイプのは、とても自力ではできません。
—そうか、それひとつとっても、そっちの職人さんがいなくなれば、いいカーペットをつくっても施工できないという。
堀田さん:そういうのばっかりなんですよ。だから、僕ら自身は、自分たちが誇れるものづくりをする誇れる会社であり続けたいし、これからもそこをさらに追求するんです。するんですが同時に、業界として、産地として生き残る手立ても考えないといけない。
—理解しました。
堀田さん:カーペットはいま、床材の選択肢にもあがってきません。新居にカーペットっていう人、身近にいませんよね?
—思い当たらないですね。
堀田さん:それをなんとかしないと。畳に取って代わりたいわけでも、競合他社がどうのとかでもなく、カーペットの暮らしを、日本でもう一度選択肢にしたい、文化にしたいんです。残すべき価値あるものだと信じてるから。
—確かに、これまでは選択肢として浮かばなかったのが正直なところですが、見た目の風合いはもちろん、こうして足で踏みしめてみたり、機能性を知ったり、それから製造工程、これを目にすると、もう、どうしていままで考えなかったのだろうと。
堀田さん:何かこぼしたらおしまいだとか、ダニの温床になるとか、誤解があって離れていったところもあるんですよね。量産品が主流になって、安っぽいイメージがついてしまったことと。
—そのイメージは、お話をお聞きして、工場を拝見して、すっかり更新されました。
堀田さん:たとえば漆塗りとか、和紙を漉く仕事を目の当たりにすると、素晴らしさに感動しますよね。カーペットづくりもやっぱり、皆さん「感動した」っておっしゃるんです。
—本当に。
堀田さん:共感してくれる人を増やして、価値ある日本のカーペット文化をつないでいけるよう、これからも挑戦ですね。
神山さん(写真右)は1987年、西岡さんは1991年入社と、どちらも30年を超える大ベテランのパートさん。製織の前に行うワインダー(糸を巻き上げる工程)を中心に、幅広い持ち場を担当。年齢をお聞きしてびっくりの若さ。お二人ともここの仕事が好きで、家庭などで大変なことがあっても、黙々と働いていると忘れられたとお話しくださいました。「ひとりで、自分のペースでできるのがいいねん」と。
神山さん:ここでの仕事しか知らないんです。だから比べられないけど、この仕事が好きなんです。みんなで取り掛かっていると競争心が芽生えて、「腕の見せどころ」って思いますね(笑)。私は、別注の柄物が大好き。むずかしいほどやる気が起きるタイプです。達成感もありますよ。子育てしながら働いて、子どもを就職させ、結婚させ、人生の大半をこの仕事と共にしました。70歳すぎてもこうして働けて、ありがたいと思ってます。
西岡さん:神山さんは、何をしても早くて、とにかく覚えがいいし、すごいできる人です。私は違います、忘れます(笑)。働きやすい職場だと思いますよ。家庭を優先させてくれますから。子育てや介護で大変だったとき、迷惑をかけるから続けられないと思ったのですが、受け入れてくれてありがたかったです。ほかで嫌なことがあっても、ここで作業に没頭していると、現実から離れられたので助かりましたね。
地元では、かつて地域で、農業の傍ら内職でまかなわれる工程もあったそう。内職とはいえ、身につくまで何年も要する職人仕事です。担い手がいなくなった現在は、ほぼすべてが内製化されていて、そうした技術の継承も細っているのがわかります。産地のこと、ものづくりのこと、それに「じまんの人」のお二人のお話も強い印象を残しました。堀田カーペットさんが担ってきたものを思います。伺う前、価格を見て、高品質のこだわりの材料を使っているから高価になるのだろうと思っていました。知れば材料は、堀田カーペットの製品を成す一要素でしかなく、一枚一枚がそれ以上の価値に溢れていました。(2022年5月取材)