キラリと光る会社
不死身の?名物創業者からバトンを受けて、誰かの“宝物”づくりを喜びに

株式会社安心堂

弾力のあるシリコンラバーを用いるパッド印刷と、シルクスクリーン印刷をメインに、「印刷できないものはほとんどありません」と謳う安心堂は、昭和49年の設立。創業者である会長さん、前職では証券会社の敏腕営業マンだったそうです。「安心堂」も、看板商品である小型印刷機「なんでもくん」も、命名は会長さん。その名を「もうちょっとなんとか…」と思っていたと語る2代目は、いまでは「このシンプルさこそ真似のできないもの」と感じているのだとか。かつて家業に関心がなかった彼女が社長に就任したのは2020年の4月、コロナ禍。いまはこの仕事にやり甲斐を感じていらっしゃいます。
キラリと光る会社第27回は、安心堂代表の丸山有子さんにお話をお聞きしました。

安心堂公式サイト

証券会社で「トップをとった」先代が創業

—現会長であるお父さまがこの地で創業されたのですよね。

丸山さん:はい。父は、生まれも育ちも足立区で、地元が大好きなんです。証券マンだったのですが、町工場に囲まれていたからなのでしょうね、ものづくりに携わりたいという思いが強かったようです。本人曰く、前職ではトップをとってやり切ったというのと、あと、お金のやり取りだけではない、なにか手触りのある仕事をしたかったみたいです。

—主力のパッド印刷というのは、創業時、一般的だったのでしょうか。

丸山さん:パッド印刷はドイツ発祥で、そのころはまだ、日本では珍しかったらしいです。最初は使いこなせなくて大変だったと聞いています。セットアップが手間で、特に清掃がとにかく面倒だったので、なんとかできないかと考えて開発したのが「なんでもくん」だったんです。

—いまに続く「なんでもくん」!ネーミングにまたなんとも味わいがありますね。なんにでも印刷できるから、ですよね?

丸山さん:そうです。名前について、以前は「ダッサ」と思ってました(笑)。でも、いろんな人に覚えてもらいやすく、呼んでもらいやすいんですよね。「安心堂」もなんですけど、だんだん、いい名前なんだなと感じるようになりました。「なんでもくん」はまた、機能的に本当によくできているんです。機械としては単純なのに、細部まで考え尽くされたつくりで、まず模倣できない完成度なんです。使う側の用途に応じてカスタマイズもしやすくなってます。印刷がわかるようになったいまでは感心するしかなくて、やっぱり父はすごいなと。

丸山さん

「なんでもくん」で足立ブランド第一号に

—「なんでもくん」は小型の手動パッド印刷機ですもんね。購入されるのはどんな方ですか?

丸山さん:企業さんが多いですね。ネームやロゴなどを手軽に入れられますからね。

—印刷したいものに、一個から、手元でできるわけですもんね。

丸山さん:はい。そこも父のすごいところで、さすが証券マンだった人だなぁと思わせるのですが、世の中が小ロットを求めるようになるだろうと見越していたんですよね。

—なるほど、マーケットを見てきた経験から。

丸山さん:そうなんです。

—でも、印刷事業を立ち上げて、パッド印刷を導入したとはいえ、機械屋さんではない会長さんが、どのようにして「なんでもくん」の製品開発をしたのでしょう。

丸山さん:足立区内の金属加工屋さんが、図面なしで形にしてくれたそうなんです。

—ええーっ…!会長さんのアイデアもすごいけど、その金属加工屋さんもまたすご腕ですね!

丸山さん:ほんとですよね。もうずいぶん減ってしまいましたけど、昔はそういう町工場がたくさんあって。父の足立区愛もそんなところからきています。

—そうした、いわゆる地に足のついたものづくりを目の当たりにしてきた会長さんからすると、証券会社でのお仕事は、確かに別物だったかもしれませんね。

丸山さん:そうなんだと思います。

—「なんでもくん」擁する安心堂さんは、足立区の「足立ブランド」認定企業第一号なんだとか。

丸山さん:第一号でもあるのですが、「足立ブランド」というもの自体、父が区と数人のメンバーとつくっていったものなんです。父は昔から足立区が大好きだったので、足立区の名を冠して盛り上げていきたい思いしかなかったんでしょうね。でも、「足立ブランド」だなんて逆効果だと思う人も少なくなかったようで、認めてもらうまでに、それなりに頑張る必要があったみたいです。

—そうだったんですね。別の区のものづくり企業の経営者さんから、「足立区は区内のネットワークがしっかりしていてうらやましい」とお聞きしたのですが、そういう努力があってのことだったのですね。

丸山さん:足立区は早くからブランド化に取り組んできたので、私も、そんな中で形成されたネットワークにとても助けられています。事業を行う上で、「こういうことはあそこに相談しよう」というのが足元にあるのはすごく心強いです。

—それはいいですね。地元でまわる感じ。

丸山さん:ですよね。ありがたいです。

代替わりして早々、コロナ禍の困難に直面して

—足立区とものづくりが大好きで、アイデアマンの会長さん。そんな会長さんの姿を見て育った丸山さんは、このお仕事に早くから興味を持っていたのですか。

丸山さん:いえいえ、ぜんぜん!うちは3姉妹で、私は真ん中なんですけど、3人とも興味なかったですね。手伝いをすることはあったので、大変なことがわかってたんです。きれいな仕事ではないし、魅力は感じていませんでした。

—会長さんは、3人の娘さんのうちどなたかに継いでほしいと思っていたのですか?

丸山さん:それもなかったと思います。自分が不死身だと思ってたんじゃないですかね、だからそもそも後継者とか考えてなかったんですよ(笑)。

—不死身!あはは。証券会社でトップをとったというお話しかり、パワフルなんですね。では、どんな経緯で、継ぐことになったのでしょう。

丸山さん:私は地元の信用金庫に勤めたあと結婚して、その後仙台に居を移し銀行に勤めました。父の前職と同じ金融業界で、印刷とは縁のない仕事です。安心堂に入社したのは2014年、離婚して、娘二人を連れて戻って来る決断をしてのことでした。当時、長女もまだ中学生だったんですね。私が生涯仕事をしないといけないと、正直、藁にもすがる思いでここで働き始めました。父が「やる気と行動力さえあれば絶対大丈夫」という考えの人でありがたかったです。でも父は、現役でいたい気持ちが強かったんでしょうね、それに親娘ですから余計に、というのもあったと思います、2020年に私に社長を譲るに至るまでは衝突もしました。いまは任せてくれています。

—2020年といえば、コロナ禍ですよね。影響は受けましたか?社長就任早々、試練はありませんでしたか?

丸山さん:そうなんですよ。うちはイベントの仕事も多かったので。

—イベントの?

丸山さん:ノベルティや、コンサート会場などで販売されるアーティストグッズが多かったんです。

—あぁ…、では、そういうイベント自体がなくなったので…。

丸山さん:はい、仕事が大幅に減りました。

—大変でしたね。乗り切るために、これまでとは違うことに挑戦したりしましたか。

丸山さん:仕事のやり方も受け方も見直しました。本気でやらないと、ここを潰すと思いましたね。こんなことなら経営の勉強をしておけば良かったと、ぐるぐる考えたのですけど、結局、本気でやるには本気で楽しめるようなことでなくてはならないと、自分のモチベーションが上がることをしようと決めました。もともと父でもってきた会社ですから、父に何かあったらもう無理だと感じていたんです。でもそれじゃダメですからね。一人では限界があるので、一緒に頑張ってくれる人が必要だとも思いました。それなのに、コロナで売上が立たない中で人を雇う踏ん切りがなかなかつかなくて…ハートが弱いなと凹んだりして。いまも不安がないわけではありませんが、腹をくくってからは、まだまだ成長するつもりで、やる気に満ちています!

沿線の駅名が並ぶ「沿線グラス」は話題に。これもパッド印刷で。

成長した二人の娘さんのうち長女は保育士として働いている。デザインを学んでいる次女は腕を生かして安心堂を手伝うこともあるそう。

「なんのために、誰を喜ばせようと仕事をしているのか」問い続ける

—ご立派だと思います。コロナで減った仕事はいくらか戻ってきましたか?

丸山さん:コロナ前ほどではないにしろ、ありがたいことに、だんだん増えてはきました。小ロットで、高価なものが増えていると実感しています。よりパーソナルにカスタマイズする傾向があって、コロナを経ての世の中の試行錯誤が見えてきます。

—お聞きするに、内容的には安心堂さんの本領を発揮できるお仕事ですよね。

丸山さん:そうなんです。コロナで仕事が激減して、先が見えなくて、「うちの価値ってなに?」って改めて考えたんですよね。そんなとき、飲食店さんから、50本のボトルにオリジナルの印刷をする仕事をいただいて、「あぁ、私たちは宝物をつくってるんだな」と気づかされました。もしかしたらうち以上に大変なときに、仕上がったボトルをご覧になって喜ぶ姿を見て、「こういうことだ」と。アーティストグッズの仕事が象徴的なのですが、名前やロゴを入れることで、単なるモノではなくなるんですよね。誰かにとっての、もしかしたら一生の宝物になるんです。モノを宝物に替える仕事をしているのだと思うとしあわせですよね。

—本当に。それが先ほどおっしゃった、本気になれる、モチベーションを上げるお仕事なのですね。

丸山さん:はい。むずかしい状況の中で落ち込むのは簡単ですが、なんのために、誰を喜ばせようと仕事をしているのかを忘れずにいようと思いました。

—とっても共感できます。そうしたお気持ちで、これからどんなことに挑戦していかれるのでしょう。

丸山さん:まず、さらに小ロット、10とか20個でも気軽にご依頼いただけるようにしたいです。とことん地域に根差しながら成り立たせることを目指す一方で、操作が簡単なのを活かして、例えば途上国に「なんでもくん」を紹介するとか、そんなことも考えています。福祉施設でつかってもらうのも良さそうです。あと、子どもたちと一緒になにかやりたい。子どもって環境を選べないので、大変な思いをしている子には、「いつでも安心堂に来なよ」って言えるようにもなりたいんです。

—やりたいことがいっぱいで、でもどれも、おっしゃった、「なんのために、誰を喜ばせようと仕事をしているのか」を起点にしているのが伝わります。初代も素敵でしたが、2代目も素敵ですね。

丸山さん:父と同じようにはできませんし、「印刷大好きー!」とは違う私ですが、いまはこの仕事にこころからやりがいを感じています。

特徴的な内装の安心堂。コロナ前は「なんでもくん」(中央のテーブルに置いてある金属の機械がそれ)を用いてワークショップなども行われていた。

会長夫妻と丸山さんの親娘ショット。お三方ともなんていい笑顔!

イチオシ 安心堂のじまんの人 神谷真由美さん

入社8年、最近正社員に。丸山さん曰く「責任感が増して、とても助けられている」大事な片腕だそうですが、ご本人はあくまで控えめと言いましょうか、「言われたことだけやっていたのがそうはいかなくなってしまいました。前の方が楽でよかった」と、本気とも冗談ともつかないことを。8年も携わっていればもう職人を名乗れるのでは?と話を向けると「とんでもない!慣れれば誰にでもできることしかしてません」とも。絶対おもしろい方だと思います(笑)。

8年前、通りがかりに募集の張り紙を見て、どういうところかも知らずに訪ねてみたのがきっかけです。印刷についても、別に興味はありませんでした。初めはむずかしいこともなくて、これならできそうだと続けていると、だんだん任されるようになって、むずかしく感じるようになりました。印刷に際して、位置や色を正確に決めるのはむずかしくて、うまくいくとうれしいです。時間がかかると焦ります。なんだかんだここまで続いているということは、楽もできたからだと思いますけど、代替わりして、私も社員になって、ちょっとだけ責任感が芽生えたかな。いまは、楽しくてやるときはやる仲間がほしいです。重いモノを持ってくれる、力持ちの人に来てもらいたいです。

編集後記

どこから見ても気負いなくシンプルな「なんでもくん」の実力を知ると、人間としてこうありたいと思わされます(笑)。大変便利な道具ですが、丸投げできるわけではなく、あくまで人の手による仕事を、忠実に、堅実に形にする「なんでもくん」。安心堂から生まれ出たのだと納得させられる機械です。それだけ、安心堂というところはアナログの魅力に満ちています。会長さんの「安心堂」との命名は絶妙に違いなく、創業から半世紀近く経ったいま、そこを子どもたちのための場にしたり、自分たちの資源を使って福祉や途上国に貢献したいとの思いを持つ2代目が、あたらたな由来を付け加えようとしているようで、社名の意味がさらに深まりそうでもあります。(2021年10月取材)

ページトップへ