キラリと光る会社
鉛筆に歴史あり、北星鉛筆に歴史あり。アイデアと心で鉛筆文化を守る、東京葛飾区の町工場

北星鉛筆株式会社

北星(きたぼし)鉛筆としての設立は1951年。以来、東京都葛飾区で鉛筆をつくり続けています。創業一族のご先祖は徳川幕府に仕え、文書を記録する祐筆(ゆうひつ:書記係)だったそう。幕府解体で職を失い、屯田兵として伊勢から北海道に移住、明治時代より材木を扱っていたのだとか。書記というルーツ×材木でのご商売=鉛筆屋さん、北海道だから「北星鉛筆」と、会社の歴史がひとつの物語のよう。受け継がれてきた「鉛筆は我が身を削って人の為になる。また、そんな鉛筆をつくるということは、真中に芯の通った人間形成に役に立つ」との言葉を大切に、時代の波を柔軟な発想で乗り越えいまに至ります。
キラリと光る会社第26回は、北星鉛筆代表の杉谷龍一さんにお話をお聞きしました。

北星鉛筆公式サイト

屯田兵として渡った北海道で、鉛筆用の板を売る

—北星鉛筆の「北星」は、前身の事業を北海道で営んでいたとき、東京の月星鉛筆という会社を買収してスタートしたことに由来するんですね。

杉谷さん:そうなんです。月星鉛筆という会社は、関東大震災で被災して、北海道に疎開していたのですが、立ち行かなくなってしまったそうです。うちは当時、北海道の豊富な木材を鉛筆用の板に加工して出荷していました。月星を買収して、北海道だから北星鉛筆としたんですね。東京に一部は残っていた月星の設備も引き継いで、1951年には、ここ葛飾区に移って来ました。

—時代も相まって、ドラマがいろいろありそうですよね。さらにご先祖を遡れば徳川幕府の書記だったんですもんね。

杉谷さん:徳川幕府解体で役を解かれ、屯田兵として北海道に渡ったので。

—そうした記録がちゃんと残っているのがすごい。やっぱり書記だったからですかね。

杉谷さん:そうなんですかね。

—杉谷さんは東京生まれで、現会長であるお父様は北海道から?

杉谷さん:会長は5歳でこちらに来ました。東京へは、祖父も若いころ丁稚奉公に来てたんですけどね。

—丁稚奉公で。

杉谷さん:奉公先はお菓子屋さんだったのですが、おもしろいエピソードがありまして。その、丁稚奉公時代、あんぱんを渋谷駅付近に売りに来ていたそうなんです。祖父の話によると、そこにはいつも同じ犬がいたらしいんですよ。

—え!それって…!

杉谷さん:はい。あとから振り返るとどうやらそうみたいで(笑)。祖父はハチ公にあんぱんあげてたようです。

—すごーい!それはすごいエピソードですね!

杉谷さん:ですよね。

—ちょっと興奮しました(笑)。実際に会った人というのは身近になかなかいないですからね。

杉谷さん:はい。

杉谷さん

アイデアで、時代の波を乗り越えてきた

—やっぱりドラマのある一族の物語ですが、杉谷さんは社長として5代目ですよね。鉛筆の製造という事業も、時代の波にさらされてきたと思います。

杉谷さん:そうですね。昭和40年代に国内に200社以上あった鉛筆メーカーは、いまは30社くらいです。そのうち自社のブランドを持っているところは片手に余るくらい。

—北星鉛筆さんはどうやって生き抜いてきたんでしょう。

杉谷さん:時代時代、要所要所でアイデア勝負ですね。

—アイデア勝負。

杉谷さん:ボールペンの普及が始まった当初、国産のボールペンのボディは木製だったんです。だからうちはそれをつくりました。あと、スーパーと組んでPB(プライベートブランド)の走りみたいな商品を開発をしたり、ダース売りが当たり前だった時代に数を減らして販売する提案をしたり、そういうことが功を奏しました。父もアイデアマンですが、その前の、私の大叔父にあたる3代目がすごくて、製造機械に、当時としては画期的な改良を加えて生産性を上げることもありました。そうやって対応してきたんですね。

—いまで言う“イノベーション”ですね。いつの時代も柔軟で機動力のある組織は負けないんですね。

イギリス発祥。鉛筆の長い歴史を日本でつなぐ

—鉛筆の需要は、日本ではずいぶん落ちていると思うのですが、世界的にも同様でしょうか。

杉谷さん:いえ、実は世界では必ずしもそうではないんです。識字率を上げようと頑張っている国では、机が、先進国のそれのように、表面を完全に平らに加工したものではないことも多いらしくて、ペンより鉛筆の方が書きやすいんですね。そうした国ではまだまだ需要があります。

—そうかぁ、なるほど。

杉谷さん:あと、鉛筆って、必ず書けるのが強みなんです。ペンは、見た目に書けそうでもインクが切れていたり、なにかの故障でここぞのときに書けないことがありますが、部品もなくシンプルな鉛筆は、見た目に書けそうなら必ず書ける。だからいまも、小学校では鉛筆を使うし、選挙のときの筆記具は鉛筆なんです。

—言われてみれば…。そういうことなんですね。そう思うとすごいですね、鉛筆。

杉谷さん:鉛筆は450年くらい前にイギリスで発祥したと言われています。イギリスでは黒鉛が採れて、それが国を強くする一因になったんですね。イギリスのように質の高い黒鉛が採れなかったフランスでは、対抗すべく試行錯誤の末に黒鉛と粘土を合わせた芯をつくって、それがいまの鉛筆の芯の元になったらしいです。ナポレオンの命(めい)だったとか。結局、現代のヨーロッパで良い鉛筆をつくるのは、イギリスでもフランスでもなくドイツというのもまたおもしろいところですよね。

—そんな歴史が。日本にはいつ渡ってきたんですかね。

杉谷さん:徳川家康がヨーロッパから贈られたという鉛筆が残っていて、それが日本に上陸した初めての鉛筆のようです。400年前のものでもまだ書けるんですよ。ずっと書けるのも鉛筆の特徴なんです。消しゴムで消える割に、書かれた文字もずっと残る。

—あらためて見ると、本当に優れた点が多いんですね。

杉谷さん:はい。うちとしては、鉛筆の価値を高めたり伝えたりというのも仕事です。鉛筆を使う人が少なくなっている日本では、大手の鉛筆メーカーのシェアをどうやって自分たちのものにするかより、そっちに心を砕いた方がいいと思ってます。いま鉛筆を使っているほとんどが小学生。少子化も進んでいますし、ただ一生懸命つくればやっていける時代はとうに終わってますよね。

—価値を高めたり伝えたり。具体的にはどのような形で?

杉谷さん:ヒット商品になった「大人の鉛筆」のような、魅力的な製品の開発はもちろんのこと、工場見学に子どもたちを受け入れたり、材料のリサイクルの一環で、おがくずからつくる粘土を商品化したり、使い終わった鉛筆を供養する鉛筆感謝祭を開催したり、鉛筆画・色鉛筆画のコンテストも、最近始めました。

—いろいろ!

杉谷さん:鉛筆のことばかり考えてますからね(笑)。

鉛筆の製造工程はシンプルで、もちろん、北星鉛筆としてのノウハウや技術はあるものの、「見せられないところはない」とのこと。

この逆三角形にきれいに鉛筆を積み入れることで、本数がカウントできるのだそう。先人の知恵恐るべし!

「できないこともないだろう」と考える性格

—「鉛筆は、我が身を削って人の為になり、真中に芯の通った人間形成に役立つ立派で恥ずかしく無い職業だから、鉛筆の有るかぎり利益などは考えずに家業として続けろ」が家訓のように継がれてきたとのことですね。5代目としては、家業を継ぐことに迷いはなかったですか。

杉谷さん:そうですね。大学を出ても、正直、ほかにやりたいこともなかったので、よそに就職することなく入社して、ここで働き始めました。継ぐ意識は、子どものころから自然と持っていたというか。

—現会長のお父さまからは、継ぎなさいとかやめときなさいとかは特に?

杉谷さん:それで言うと、私が幼稚園くらいのころからもう、継がせるべく刷り込みは始まっていたと思いますね(笑)。当時は父のそんな戦略がわかるはずもないんですけど、父は家で鉛筆屋のいいことしか言いませんでしたからね。仕事のことは楽しそうに話すし、出張に行けば子どもの喜ぶお土産を買って来るし、ひたすらいいイメージをインプットされて、すっかり術中にはまった感じでしょうか。

—あはは!長期にわたる、なかなか壮大な戦略ですね。

杉谷さん:しかも、息子のできが良すぎるとよそに行きかねないから、そこそこに、と考えてたらしいですよ。

—なんと(笑)!実際に入社してみて、その後社長になって、「思ってたのと違う!」という気持ちにはなりませんでしたか。

杉谷さん:幸いそこまでのことはないですね。いままさにコロナの影響もあって、これからが正念場なのかもしれませんけれど、これまでは会長はじめみんながフォローしてくれて、なんとか楽しんでやってこられました。

—性格的にも、楽しめるほうですか?

杉谷さん:そうですね。それが長所ですかね。あれこれ本を読んで学んだりはまったくしないタイプですけど、例えば社長業も、誰かほかにやっている人間が世の中にいるわけなので、自分も頑張ればできるだろうという考えです。あまりむずかしく考えたって、経験するしかないというか(笑)。やる前に深く悩むことはないですね。

—いいですね!では、だいたいのことは「できるだろう」と考える?

杉谷さん:できないこともないだろうと考えます(笑)。

—すごくいいと思います(笑)。鉛筆の価値を高めたり伝えたりする使命についてはお聞きしましたが、ほかに実現したいことはありますか。

杉谷さん:使命というのであればやっぱり、仕事をする、ものをつくるということを通して、ひとをしあわせにするのが会社の使命だと思います。社員がしあわせじゃないと、ほかにしあわせを提供しようがないんじゃないですかね。個人としても、ひとのしあわせを考えていけば、自分もしあわせになれると思います。いろいろあるし、いろいろ言う人もいるでしょうが、私がそう思うのは勝手なので(笑)、それでいきます。

—それでできないこともないだろうと。

杉谷さん:はい。できないことではないと、私は思います。

自作のパネルに収まる明るい親子(笑)。※左が社長、右が会長

敷地内にある、短くなった鉛筆を供養する鉛筆神社。

イチオシ 北星鉛筆のじまんの人 会長 杉谷和俊さん

鉛筆資料館「東京ペンシルラボ(TOKYO PENCIL LAB.)」にて、鉛筆に携わること50年の4代目。自他共に認めるアイデアマン。明るくお話し上手で、お話ししていると杉谷社長の前向きさは会長譲りだとわかります。なんでも自作するのが好きで、写真の背景に写る絵や、寄り添うお地蔵さんも、鉛筆の製造過程で出るおがくずを原料にしたリサイクル粘土「もくねんさん」で自作したそうですよ。

鉛筆が使われ続けるよう、時代ごとに価値を見いだしてもらえるよう、常に考えています。「鉛筆は折れてダメだ」と言われれば、どうすれば折れないかを考えて、特殊な鉛筆削りを開発する、という具合にです。とにかく売ればいいというものでもありません。長続きさせるためには、そのときやせ我慢したって、売らないという選択肢をとることもあるんですよ。流行りはすぐに廃るからです。工場見学に来る子どもたちには、「人間は考えたことしか実現できないのだから、人生、考え続けなさい」と言ってます。絶えず自分で考えるのが大事。大人も答えを言っちゃダメ。蟻のように鳥のように、いろんな視点を持つことが、どんな時代をも生き抜く力になると思うんです。

編集後記

杉谷家の逸話はまだあります。会長さんのもうひとりの息子さん、社長さんの弟さんは杉谷和彦さんとおっしゃる漫画家で、先ごろ、あの前澤友作氏がツイッターでマンガ画像を募集した際、3名に選ばれ100万円もらったそうです!ネタの尽きないご一家です。そして工場!足を踏み入れたとたんに、あの、鉛筆の、あの、木の香り。工場見学に訪れるいまの小学生が持つ印象はわかりませんが、ノスタルジーにあふれた、魔法のような場所でした。ローテク(と言ったら怒られるでしょうか)な機械、アナログな設備が、とても人間的で、木を材料に、一本一本できてゆく鉛筆たちからもまた、単にモノ以上のあたたかみが感じられました。もう、絶対に鉛筆を使い続けようと思いました。(2020年11月取材)

ページトップへ