キラリと光る会社
島愛が生んだ、唯一無二のローカルメディア。名物パーソナリティ有する、コミュニティラジオ局

あまみエフエム ディ!ウェイヴ

「シマッチュの シマッチュによる シマッチュのためのラジオ」を掲げる地元奄美の人気FM局。「ディ!ウェイヴ」の“ディ!”は、奄美大島の、「さあ、〜しよう!」というかけ声で、ちょうど英語のLet’sのような言葉です。2007年に開局し、島の人の音楽への受け止め方を自然と変化させたとも言われる77.7MHz。流れてくる音楽も情報も地元尽くし、パーソナリティも島口(島の方言)で進行と、主役はとことんシマッチュ(奄美出身者)。運営するのはNPO法人ディ、代表は、島の都会・名瀬出身の麓(ふもと)憲吾さんです。
キラリと光る会社第17回は、あまみエフエム ディ!ウェイヴ代表の麓憲吾さんにお話をお聞きしました。

あまみエフエム ディ!ウェイヴ公式サイト

コンプレックスではなくアイデンティティに

—奄美大島では、カーラジオで地元のFMを聴くのが定番なんですね。あまみエフエムの開局は2007年と比較的新しいですが、求められていると感じてつくられたのでしょうか。

麓さん:FM局というよりは、 奄美のアイデンティティをテーマにしたメディアをつくりたかったんですね。立ち上げのときは、この時代になんでアナログメディア?って反応が多かったので、ここまで浸透するとは思いませんでした。

—奄美のアイデンティティをテーマにしたメディア、というのは素敵な響きですが、奄美らしさが地元で見直されつつあったのでしょうか。

麓さん:2002年の初めに元ちとせがデビューして、奄美出身を堂々と名乗りながらスターになりました。それが我々、シマッチュ(奄美出身者)のコンプレックスのふたを開けたんですね。

—コンプレックスのふたを?

麓さん:自分らくらいまでの世代は、学校でも標準語を強いられていたくらいで、否定されてきましたからね。高校卒業後は島を出て行くものと決まっていたので、将来恥をかかないように教育したというのもあったのでしょうけれど、コンプレックスを持つべくして育って、染みついていたものです。上の世代になるほど根深いですね。

—かつては麓さんもそうでしたか。

麓さん:はい。地元ではロックバンドのリーダーで、そこそこ知られてたんですよ。なにかというと声がかかって、役割みたいなものを感じられていたんですね。高校を卒業して就職した神奈川では、出身地を言っても知ってる人さえいなくて、だんだん、自分の存在理由がわからなくなってゆきました。奄美の人や環境のあたたかさもわかったし、本当は帰りたかったんです。でも、ノコノコ戻るのは負けという風潮が強かったので、4〜5年無理してがんばりました。結局、「なんで戻っちゃダメなの?」の気持ちが勝るようになって、島に帰り、大工の棟梁の父親の下で大工の修行を始める傍ら、音楽活動も再開しました。

—ここ(あまみエフエム)の階下はライブハウスですもんね。

麓さん:地元のミュージシャンのために、半ばDIYでつくりました。そのうち内地のミュージシャンも来るようになって、奄美のことをいろいろ聞かれることが多くなったんですね。ところが答えられなかった。考えてみると、自分らが教わった学校の先生だって鹿児島から来ていたし、奄美の歴史や文化を学んだ記憶はありません。よく目にする花や木の名前だって知らない。地元に誇りを持ってなかったからですよね。ならば自分らのアイデンティティってなんだ?って、ちょっとずつ考えるようになりました。

麓さん

あまみエフエムは「音波、電波を扱う“空気屋”。ハードでもソフトでもなくハート、気持ちのやり取りをする仕事」と話す麓さん。

豪雨災害のとき、夜通し語りかけるように放送して・・・

—麓さんにとって、音楽がいろんな入り口だったんですね。

麓さん:気づくと音楽が生活の中に生きている島に生まれ育ってたんですよね。元ちとせや中孝介のような、ここでしか生まれないミュージシャンを生む島なんです。彼らのほかにも素晴らしいミュージシャンが大勢いるんですよ。2002年に、渋谷で900人規模の奄美のアイデンティティイベントを開きました。奄美をPRする目的のイベントではなく、出演ミュージシャンも観客も出身者という、シマッチュのためのイベントです。デビュー一週間前の元ちとせも出てくれましたよ。笑い話みたいですが、900人も、ほとんど全部電話で誘いました。うち95%はシマッチュでした。

—すごい!アイデンティティイベントかぁ。

麓さん:地元や東京でこうしたイベントを開催するうちに、“これ”をもっと伝えたいという思いがふくらんできたんですね。一定の箱の中で盛り上がっても、日常にはなりえないじゃないですか。日常的に出身者の声を聴かせたいと思ったら、音声メディアが必要だと。FMの立ち上げは、そんな流れでした。

—なるほど。それにしても麓さん、行動力ありますね。

麓さん:工業高校出身の、やる気のあるバカだからできたんですよ(笑)。公私ともに綱渡りしすぎて足の裏に溝ができてます!大きな借金を抱えたこともありました。あのとき銀行が貸してくれなかったら生きてませんでしたね。

—公私ともに…。そこについてはあえて突っ込んで聞かないようにしますね(笑)。

麓さん:あはは。

—いやぁでも、こんなにみんなが聴いてるだなんてすごいじゃないですか。

麓さん:2010年の豪雨災害のときの災害放送が転機になりました。リスナー情報に基づいて、道路や河川の状況を流し続けたんです。停電で暗い中、怖くて不安な思いで聴いてる方を想像しながら、できるだけ癒されるような音楽を流したり、夜通し語りかけるように放送しました。こちらも手探りでしたけど、不安の共有が安心感になったのだと思います。あのときのことがあって、必要とされていることを行政を含めた周囲が理解してくれるようになり、自分たちも実感できました。

—停電で暗い中に流れてくる…。心細い状況の中、リスナーも救われる思いだったでしょうね。不安の共有が安心感になるって、すごくわかる気がします。ひとりじゃないって思えますもんね。

麓さん:そうなんです。ラジオはそもそも視覚的なものがないメディアなので、その分、視聴者も能動的に「わかろう」とするんだと思うんです。だから、受け身だけど受け身なだけではないというか、こちらとつながっている意識を持ちやすいように感じます。

ライブハウスがなかった島に、麓さんが仲間とつくったライブハウス「ROAD HOUSE ASIVI(アシビ)」。1998年から、いまもずっと愛されている。

名物パーソナリティ(下手♡)発掘!彼女を通して伝えたいこと

—だんだん、ラジオの魅力に取り込まれてきました(笑)。というか、あまみエフエムは魅力ありすぎです。今日もカーラジオから、パーソナリティの方の「大きくなったらなにになりたい?」という質問に、幼稚園の子かな?「横綱」って答えるのが流れてきて最高でした!島の人がいっぱい出てきますよね。

麓さん:幼稚園児からおじいちゃん、おばあちゃんまで、地元の人の「出演したことある率」は相当高いですね。あまみエフエムは成り立ちがさっきお話ししたような感じなので、初めは音楽を通して、みんながアイデンティティを再認識できるようにと考えていたのですが、そのうち音楽以外でも、自分たちの地域を探求して、東京とか内地の相対として出してゆくことに手応えを感じるようになりました。

—いやぁ、すごくいいと思います。

麓さん:最初はムキになって、アイデンティティ、アイデンティティって言ってたんですよ。でも、真面目ばっかりだと多くの人には伝わらないなって。やってることは真面目でも、表現はポップに、力まず楽しくおもしろくがいいんじゃないかって。2011年に渡陽子がパーソナリティとして加わって、笑わせてるのか笑われてるのかわからないようになってきた。上等じゃないかと(笑)。

—陽子さん、最高ですよね!彼女を見出した麓さんもすごいと思います。

麓さん:陽子はもともと営業職希望で、パーソナリティになる気なんてまったくなかったんですよ。でもしゃべらせたら「これだ!」と思ったんです。下手なんで(笑)、最初はクレームもきてね、でも、理屈でやっていって上手くなると、伝えたいものが変容してしまうと思って、そのままやらせました。

—そこまで思わせた陽子さんの魅力と、彼女を通して伝えたいと思ったものはなんだったのでしょう。

麓さん:彼女の集落がすごいし、彼女がすごいし。奄美の中ではね、自分は街っ子なんですよ。同じシマッチュでも、陽子のような田舎生まれの子の感覚は違うんです。「ここから始まった」という軸をちゃんと持ってるんです。あの、誰をも受け入れて、あっち側とこっち側をつくらない懐の深さ。どこまでも素朴に、誰にでもやさしくできてしまう感性は、やっぱりあの、60世帯くらいの集落で育まれたものなんじゃないかと思いますね。そこなんですよ。

—あっち側とこっち側をつくらない懐の深さ…。それっていま、世界が一番必要としていることじゃないですか!

麓さん:そうですよね。そうなんですよ!彼女と、彼女を育てた集落を見てて、ここに真理があると思ったんです。一番の価値が、足元の、小さな小さなところにあるんですよ。

おそろいのオリジナルパーカーを着たスタッフの皆さん。どうですか、この笑顔!

島育ちの若い世代の感性は脅威。負けを認める日が楽しみ!

—あぁ、いいお話だ…。

麓さん:でしょう。うれしいことにいまの若いシマッチュは、コンプレックスを経ることなくアイデンティティを持てています。奄美の音楽も、自然に良いものとして受け入れられてきているから、島のお店なんかでも以前よりふつうにかかるようになりました。そのあたりはあまみエフエムの功績と言えるのかなって思っています。

—すごい功績だと思います。育ててきたということですもんね。

麓さん:うれしいですね。奄美のアイデンティティを自然と持って育った若い世代が、高校を卒業して島をいったん出たとして、外から島をどう感じて、島にどうフィードバックするか。自分らにとっては脅威ですよね。負けを認める日がくるのが楽しみです(笑)!

—カッコいい!さらにやってゆきたいことはありますか?

麓さん:東京を中心に、都会に暮らす奄美出身者がいっぱいいます。できることならUターンしたいという人も多い。Uターンしないまでも、強い郷土愛を、ほとんどの人が持っています。そんな人たちが、島を思って、島にないものを手間とお金をかけて持ってきてくれちゃう。けど残念ながら、課題感覚のミスマッチがあったりして、往々にしてこちらが必要としているものとのズレがあるんです。そこは島にいる自分たちにも、伝え切れていないという意味での責任があると思っています。せっかくの思いと、お互いの持てる力を生かして形にできるようしてゆきたいです。

地元アーティストのポスターやちらしでいっぱいの、あまみエフエムの廊下。

開局5周年に合わせ、市場内に構えたサテライトスタジオ。駄菓子屋を併設しており、誰でもWelcomeな場所として開かれている。

イチオシ あまみエフエム ディ!ウェイヴのじまんの人 渡陽子さん
渡陽子さん

1978年生まれ、趣味はイカ釣りとダイエット。イカだけでなく、「何年か前まではハブも年間10匹くらいは捕まえてましたよ!」と(注:奄美ではお小遣い稼ぎになりますが、良い子は真似してはいけません)、とにかく楽しい。

ビール会社の営業として車でこの辺をまわっていたころ、ラジオから流れてくるのが島のことばかりで、音楽も都会の有名アーティストでないのがいいなって思ってました。代表を見かけるたび、「雇ってください!」って言ったのに、冗談だと思われてたんです。やっと「来ていいよ」ってなって、やったー!と喜んでたら、しゃべる仕事だって!「ほかにいないからだ、最悪だ」と泣きました。カミカミで放送して、クレームがきてまた泣いて。それからずっとつらかったんです。でも、『島の宝 奄美っ子』という、幼稚園や保育園をまわって子どもにしゃべってもらうコーナーで、おとなしい子も、一緒に遊んで仲良くなったら名前くらいはしゃべってくれるとわかって。自分が上手くしゃべれなくても、この子たちの声を流せれば集落のじいちゃん、ばあちゃんも喜ぶなって、やりがいを見つけました。いまは役割があると思えて楽しいです。それに、こっちが慣れる前に聴くほうが慣れてくれたみたいです(笑)!

編集後記

美しい海、多くの固有種を有する緑深い森、サーフィンやカヤックにも適した環境。驚くほどの観光資源を持つ奄美大島はいまも、土産物店や量販店、コンビニチェーン、もしくはリゾートホテルが軒を連ねるほどの開発はなされていません。だから保たれた、という面も少なからずあるのでしょう、独自の文化を色濃く残し、結びつきが強く、人々の心もあたたかでおおらかな島です。愛する理由がいくらでも見つかるであろう奄美の地元の人たちが、心に島愛とコンプレックスを共存させ、音楽にしても、「奄美民謡を習っていると知られるのは恥ずかしかった」と、幾度か耳にしました。島唄が聴こえてくる日常が地元に訪れるまでに、あまみエフエムの果たした役割はどんなにか大きかったでしょう。単なる奄美ファンのナイチッチュ(内地の人)ではありますが、そんなあまみエフエムをつくった麓さんの手を握り、お礼を言いたくなるのでした。(2018年2月取材)

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