キラリと光る会社
自ら切り開く力を子どもたちに。「まずは保育園」を実現させた、“大いなる凹”社長

株式会社そらのまち

“こどもたちの、「親友」でありたい”。そう掲げる保育園。(株)そらのまちは、鹿児島県鹿児島市の「そらのまちほいくえん」を運営しています。両園の代表を務める古川理沙さんが、同県内霧島市の「ひより保育園」に続き2018年に開園。特に食に力を入れており、手をかけたおいしい給食を、それも単に提供するにとどまらず、子どもたち自らが調理に参加する機会をつくるなどしながら、そこから学ぶことを大切にしています。保育事業未経験、損得ではなく始めたという古川さんは、起業家として注目の人物でもあります。
キラリと光る会社第40回は、そらのまち代表の古川理沙さんにお話をお聞きしました。

そらのまちほいくえん公式サイト

日本語教師を経て、会社を、とりあえずつくった

—古川さんは、日本語教師としてキャリアをスタートし、そのあとに物販の会社を設立されて、そしていま、ですよね。経緯を教えてください。

古川さん:浅〜いところをお話しすると、なんというか、単になにも考えてなかったんです(笑)。きちんと語れるような経緯はないんですよね。

—大学を卒業後、韓国で日本語教師をされていたんですよね。

古川さん:はい。韓国に2年半、そのあと中国に6年いました。

—それだけでもなかなかないご経験だとは思いますが、まずはそうした道を志したのですね。

古川さん:志したというか、お恥ずかしいのですけど、小学校のときにALT(Assistant Language Teacher:外国語指導助手)の方が学校にいらして、その姿に、「なんて楽な仕事だろう。なんで私はアメリカ人に生まれなかったんだろう」って思ったんです。話して、歌って、おやつ食べて…、いいなぁ、私もアメリカ人だったらこの職業に就きたいと。高校で日本語教師の資格を持つ国語の先生に出会ったことで、「そうか、私も外国に行けば同じことだ」と思いついたんです。

—そのようなきっかけで。

古川さん:鹿児島市の志學館大学に、日本語教育の素晴らしい教授お二人がいると教えてもらって進学しました。20歳のとき、それまでこの大学から受かった人がいないらしい割と難易度高めの日本語教育能力検定試験に、周囲に「無理無理!」と言われながら運良く一発で合格して、学内でちょっと注目されました(笑)。国内で日本語教師をするつもりだったのが、教授に「(日本語を)わからない気持ちを理解できるようになるために、どこでもいい、何語でもいいから、海外を経験しておくといい」と言われて納得して、韓国での募集を見つけて応募しました。ちょうど、サッカーW杯の共同開催を控えていて、タイミングもいいなと感じたんですね。

—そのあと中国も経て、日本語教師を続けようとはならなかったのですか。

古川さん:日本語教師は、学生時代のボランティアも数えると約10年、とてもいい経験ではあったのですが、後半は教科書の執筆に携わるくらいになって、ひとまずやり切った気がしたんです。いったん別のことをしたとして、戻りたければ戻れるなという感触もありました。

—別にやりたいことがあった。

古川さん:それが、特にあったわけでもなくて、でも就職するというのはピンとこないし、とりあえず会社をつくろうと思っちゃって。普通は、なにをするかが先にあって会社をつくりますよね。私にはそれがなく、設立のための手続きで法務局とか行くじゃないですか、そこでなにをする会社をつくるのか聞かれて、「決めてません」と答えました。

—ええぇ〜、おもしろい!

古川さん:窓口の人も、厄介な人が来たと思ったでしょうに、親切な方で、「会社をつくるには、事業の目的を定める必要があってね、それから定款というのが…」とか、一つひとつ教えてくれたんですよ。アドバイスに従って、とにかく少しでもやる可能性のありそうなことは全部書いて、会社は無事につくることができました(笑)。

古川理沙さん

保育園は、「私以外に適任はいない!」と豪語して

—つくった会社で、なにをすることにしたんですか。

古川さん:ちょっとしたきっかけがあって、これまた安易にネットショップをやってみようと決めました。中国につながりがあったし、送料が小さくて済むという理由でアクセサリーを仕入れて売ることにしたんです。当時は仕組みもロクに知らず、アクセサリーに興味もないのにひどいんですけど、同級生を社員に誘って、「楽天で売ろう」と、始めました。売れるわけないですよね(笑)。同級生への給料もあって、貯金の底はすぐに見えてきました。アクセサリーはダメだなというのと、ちょうど妊娠中だった私は、日本のベビー用品のクオリティの高さとバリエーションの多さに感動していたときで、これなら自分が熱中できるという思いと、ベビー用品が安く手に入るから好都合だとの思いで、商材をベビー用品に切り替えることにしました。なかなか浅はかですよね。

—ははは。

古川さん:全然売れなくて困ってるうちに、アメリカで流行りだしていたおむつケーキを出産祝い用に扱えばどうだろうとやってみたら、これが当たったんです。私と、その後元気になった同級生、中国から一緒に帰国した夫の3人で、ヒマを持てあましていたのが一転、あれよあれよという間に10人規模になって、それからずっと成長し続けています。ネットショップの成功事例のように取り上げられるようになりました。

—すごい…。

古川さん:心構えのないまま扱うお金だけが大きくなって手に余り悩んでいたところ、地元鹿児島で老舗ホテルの創業から財務に関わっていらした方と出会って、経営周りのさまざまなことを教えていただけることになったんです。一線から退かれて鹿児島の若手のためにご自身の経験が役に立てばと新たな会社を立ち上げられたところでした。ここ、そらのまちほいくえんの立ち上げに際して、通常なら無理な融資を信金さんが通してくれたのも、その方に教わったおかげで事業計画がしっかりできていたことへの評価が大きかったのだと思います。本当に助けられました。

—確かに向こうみずなのですが、計算がなくて、二心がないというのですかね。それに、一定以上の年齢、しかも経営者となると「わかりません。教えてください」と言いづらくなりがちだと思うんですよ。自然に言えてしまう古川さんだから、得がたい助けが舞い込んでくるのでしょうね。

古川さん:ひより保育園の園長の白水は、私を横でずっと見てきて、「大いなる凹(ぼこ)」であるがゆえに、足りていない部分を周囲が一生懸命埋めたくなるんだと言っています。

—人徳がないと、誰も埋めてくれませんから。ところで、物販の会社は順調に継続しつつ、保育事業にも乗り出したのですね。

古川さん:はい。まずは保育、だったんです。順次、学校もつくりたいと最初から考えてました。新卒で海外に出て日本語教師をしていた私の世界は狭くて、というのも、日本に興味を持つ他国の人と接していたので、みんな日本を褒めるんです。彼ら彼女らがイメージしている日本と、帰国後に自分の肌で感じる日本との間にギャップを感じました。学校の先生と話すと、小学校に入学した時点ですでに無気力な子どもが少なくないとおっしゃる。自分の子どもに重ねてみても、与えられた問題を与えられた方法で解くという教育で、自ら切り開く力ってつくのかな?と、強く感じるようになりました。そうした力をつけずに育つと、大人になるほどに厳しいなと。ならば保育園の、真っさらの状態からがいいんじゃないかと考えたんです。

—古川さんは、教育には携わっていらしたけど、日本語教師と保育園の運営もまるで異なるでしょうし、教育への問題意識を持つことと、保育園を本当につくってしまうことの距離って相当ありますよね。

古川さん:ほんとにそうですよね。物販のほうの会社の代表として、いろんな人の前で話す機会が結構あったのですが、そのときに「保育園をやりたい」と言ったら、後日、建設会社を経営されている方から声がかかったんです。お会いしてお話しするうち、その方もずっとより良い幼児教育について考えていたと、「あなたは実行するためのすべてを持っているけどお金だけがない。自分はその逆だ」と、組めばいいのではないかとおっしゃるもので、私もつい、「私以外に適任はいない!」なんて豪語してしまいました。それでできたのが、1園目のひより保育園です。「お金の面倒は全部自分が見るから、あなたは良い教育だけを考えて保育園をつくって」と言ってくださったので、経済的には一円のリスクも負わずにスタートできたんです。

—古川さん、「引き寄せの法則」とか語れそうです。

古川さん:あはは。

最初につくった、霧島市のひより保育園。

保育園の存在が、街の活力のタネに

—でも保育事業を実際にやるのは、それはそれは大変でしたでしょう。

古川さん:ど素人ですし、苦労ばっかりですよ(笑)。でも、次第に、(ひより保育園は霧島市なので)鹿児島市にもつくってほしいと言われるようになりました。

—それで、そらのまちほいくえんを?エピソードが豊富すぎて、やっとここに辿り着きました。

古川さん:ひより保育園が注目されて、いろんなところから視察が来るようになったんですね。でも、郊外型の園であることを理由に、田舎で環境がいいから子どもがのびのびできる、視察にいらした方々の地元では通用しないなどと言われることが多くて、すごくもやもやしたんです。ならば真逆の環境でやってみせよう!という気持ちになりました。

—そらのまちほいくえんは、都市型ですもんね。

古川さん:そうなんです。全国どこでもそうであるように、街の中心部は全国チェーンのお店で埋め尽くされたり、郊外にできる大型店舗に客足を取られたりで、日本の地方都市の個性が消えていっている中で、鹿児島といえば、ここ「天文館」という繁華街が一番大きな商業地域で、いまでも同規模の地方都市と比べるとまだまだ活気がある方なんです。それでも私が若かったころと比べると、やはり少しずつ寂しくなってきている。保育園をつくったら、毎日通ってくる親子が何組も生まれ続けるわけなので、少しは地域の様子を変えられるんじゃないかと、立ち上げメンバーとも話しました。

—おお。

古川さん:今度は自力でと、地元の信金さんに融資を申し込んだら、担保もないし、申し訳ないけど無理だと一度は断られてしまいました。でも最終的には、一緒に街をつくろうと、普通では考えられないような条件で融資してもらえることになりました。

—通してくれた信金さんもさることながら、それだけの責任を背負うなんて、古川さん、本当に思い切りましたね。すごいです。

古川さん:約1億5千万円必要だったんですよ。この金額って、私が必死で働いて、車とか売れるものは売って、娘に私立から公立に変えてもらって、とか、個人が思いつく限りのことをしたところでパッと捻出できるものではないですよね。このころから、融資を受けるということへの考え方がずいぶん変わりました。私たちを信じて融資をすることを決めてくださった金融機関や、仲間であるスタッフ、そして保護者さんや街の人など。関わる皆でよいものをつくり上げていくためのリソースの一つとしてお金があるのだと。

—本当ですね。そらのまちほいくえんができてから、地域の人の流れに変化はありましたか。

古川さん:ありました!次第に周辺の空きテナントも埋まっていきました。

—ちゃんと地域に恩恵が。素晴らしいです。それにしても、2園やって、ほかに物販の会社も。

古川さん:いま全部で4社やっていて、ほかにNPOの理事もしています。

—中でも保育園というとやはり、働く方も大変で、人手不足というイメージが強いです。そのあたりのご苦労はありませんか。

古川さん:何もかもゼロからのスタートだったので、混乱もありました。スタッフについては2巡してやっと落ち着いたという感じです。いまはおかげさまで、保育士さん同士の口コミや、スタッフの紹介で来てくれた人たちで充実しています。

—ここのあり方に共感して、働きたいと思う方が多いですか?

古川さん:そうですね。ありがたいです。

園児60人規模となったそらのまちほいくえん。

食べるものが誰かの手でつくられていることを感じてもらえるよう、調理の場が目に触れやすい設計になっている。

食を通して子どもたちの生きる力を育てたい。そして次は

—スタッフに対して日ごろから心を砕いていることはありますか。

古川さん:気負ってはいませんけど、表と裏とをつくらないことですかね。ほとんど定時で上がるとか、残業代は1分単位でつけるとか、有給をちゃんと取れるようにするとか。そういう、基本的なことは守れるようにしています。あとは、万一ここが潰れても、「あそこにいた人なら」と、どこでも歓迎される人材になってほしい、プラスの経験をしてほしいと思いながら接しています。こんな、実績のないところを選んで働いてくれるスタッフを、私はリスペクトしてますし、大好きです。

—利用者の方々、スタッフのみなさんに最も共感されているであろう点としては、子どもたちに、自ら切り開く力、生きる力をつけてもらいたいという部分でしょうか。それらの力を、食を通して…というのも最初からおっしゃっていますよね。

古川さん:はい。食料自給率の低さをはじめとする食への問題意識がまずありました。カロリーベースでは、国として40%を切っていますし、食糧生産が盛んな鹿児島県でも100%に届きません。輸入に頼るのが当たり前になっていて、生産地と食卓が遠くなっていますよね。自分たちにできることから実践しようと考えて、例えば毎日の給食で、できる限り地元の食材を使うこと、生産者さんから言い値で買うこと、あと、白菜がちんげん菜に変わってもいいし、ブリがタイになってもいいという前提で注文を出すやり方を採用することにしました。指定してしまうと、先方にその種類がない場合、出荷するためにどこかから調達する必要が生じてしまいます。そうならないよう、こちらが、「煮付け用の魚をお願いします」といった具合で注文すればいいんだと気づいたんです。いまあるものの中から見繕ってもらって、あとはこちらで対応するんです。

—生産者さんにすれば、助かるし、保育園で食べてもらうのはうれしいでしょうね。

古川さん:「保育園で使っている」というのが、生産者さんにとってのPRにもなるんですよね。そうした、間接的な地域への貢献にもなるかなと。

—そうか、そうですね。子どもたちも、調理に参加したりするんですよね。

古川さん:はい。子どもってだいたい1〜2歳で台所仕事に興味を持つんですね。まだ危ないからとか汚すからとかで、その時期に離してしまうと、大概離れっぱなしになるんです。してみたい気持ちを育てることが大事。ごはんをつくるのってそれに、自力でPDCAをまわすことを学ぶのにうってつけなんですよ。

—あぁ、なるほど。ゴールまで、いろんな、考える要素を含みますもんね。自ら切り開く力につながりますね。

古川さん:そうなんです。工作でも考える力がつきますけど、料理だと食べられるから、日々やっても無駄が出ません。子どもが紙とかでつくってきたものって、見るのは楽しいのですけど、捨てるに捨てられなかったり、でもどんどんたまっていくから捨てるのやむなしだったりで、毎日だとちょっとどうなのかなって、私自身が子育てを通して感じてたんですね。

—そうか、それに、ごはんをつくることはそのまま、生きる力ですもんね。興味が育って、家でもやる子がいるんじゃないですか。

古川さん:小学校に入ってから、夏休み期間中ほぼ毎日自分でお弁当つくった子がいます。ときどき夕食もつくってくれると親御さんから聞きました。

—育ってる…!それにしても、エネルギーの要る事業をいろいろ考えながらやってらして、今後はさらに、小学校、中学校ですか。

古川さん:はい、順々に。ある程度は見えています。私も年をとっていくわけですけど、最後は介護施設までやりたいです。

—きっと、本当にやるんだろうな。すごいパワーと実現力です。「あぁもう、疲れた」ってなることありませんか?

古川さん:あるんですけど、次のごはんまでですね。私、長期の記憶が無理で、いろいろ忘れるから大丈夫です。

事務長の百田明理さんは高校のときの後輩。

イチオシ そらのまちのじまんの人 中島桃花さん

2022年に新卒で入社、調理部で給食調理を担当。「じまんの人だらけ」という中で、スタッフから「若い人に!」と推されてご登場の中島さんは、第一印象から、そらのまちほいくえんのイメージそのままの方でした。お母さまが調理師のアシスタントをされていたのを見て育ち、テキパキとおいしいものをつくるその調理師さんが憧れの人だったといいます。「給食のために学校に行っていた」中島さんはいま、小学生のころから夢だった職業に就いているそうです。

「こんなに仕事が楽しい社会人になれるとは思っていませんでした。私と同じく高校卒業後に就職した同級生からは、仕事がつらい、辞めたいという話も聞くのですけど、私は仕事が大好きです。まだ2年目の私の、やりたいことを拾ってくれて、本当に恵まれた職場だなと思っています。小中と、給食のために学校に行っていた私は、男子並みにおかわりをしてたくさん食べていました。いまは、目の前で子どもたちのおいしい表情を、「おかわりあるよ」って、いつもうれしく見ています。おばあちゃんになるまでここで働きたいです。そしておばあちゃんになったら、子ども食堂をやりたいです。「子どもたちの居場所をつくりたい」。それが、ここで働くようになってできた、あたらしい夢です」

編集後記

今回、最初にお話をお聞きしたのは「じまんの人」の中島さんでした。のっけからノックアウトされた感じでして、この職場が悪いところであるはずもないと確信しました。そして古川さんです。行動力も実現力もずば抜けていらして、人並み外れた度胸と勇気の持ち主であるとも思うのですが、実はご本人は、「好きにしてていいと言われたら、ずーっとひとりで家にこもっているタイプ」とおっしゃり、パーティーのような場で挨拶や名刺交換を繰り返したりの、いわゆるソーシャライズは大の苦手。講演などで話すのも、得意かもしれないけど好きではないという、自称「コミュ障」なのだそうです。役割としてやっていらっしゃるんですね。「自分の好きに過ごしているだけでは成長がないので」動くそうですけど、成してきたこと、成そうとしていることがすごすぎます。そして愛がある。尊敬します。(2023年11月取材)

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