キラリと光る会社
業績を伸ばした先で、つまずいた過去。採用と育成で、未来に投資を

株式会社アイ・エム・シーユナイテッド

創業は1985年、木型職人だった先代が、個人事業主として始めました。有限会社を経て株式会社化し、2009年にアイ・エム・シーユナイテッドと社名を改めます。その間、大手企業との取引と共に工場を拡張するなど順調に成長してきたかに見えますが、2000年に就任した現社長は、驚くほど波乱の舵取りを経験しています。人材獲得の面では、広島市中心部からは離れたロケーションをハンデとしながら、できる限りの条件を揃え、ここ10年は毎年新卒採用を行って、はえぬきを育成中。40名の会社です。
キラリと光る会社第46回は、アイ・エム・シーユナイテッド代表の今津正彦さんにお話をお聞きしました。

アイ・エム・シーユナイテッド公式サイト

会社に行かなくなった先代が始めた、ザ・家族経営

—木型製作から始まった会社だそうですね。

今津さん:はい。鋳造(ちゅうぞう)と呼ぶ、溶かした金属を鋳型に流し込む金属加工法がありまして、古くは貨幣の型にも用いられていました。例としては、最近さまざまな意匠を目にするマンホールの型がわかりやすいと思いますが、あのような複雑な形状のための鋳型の設計、製造は、依然として当社の主力のひとつです。父親である先代は、のみやかんなを使って木で製作する、その職人でした。

—職人さんがつくった会社だったんですね。

今津さん:これがいろいろとありまして。まず、父親は小さな会社の社員として、15年くらい職人としてやっていたんですが、あるとき仕事に行かなくなったんですよ。理由は中途で入ってきたベテラン職人とソリが合わないという…。

—まぁ、人間関係は、重要にして大変、ですからね。

今津さん:そうなんですが、会社に行かずに毎日家で酒飲んでベロベロになって、最悪でした(笑)。

—それってもしかして、いわゆる無断欠勤、ですか?

今津さん:はい、いわゆる。3ヶ月くらいもですよ。

—なんと。

今津さん:そんなある日、突然「(会社に属さず)自分でやる」と言い出したんです。父は職人として腕は良かったので、食べていける程度にはなんとかなると踏んだんでしょうけど、「お前も一緒にやるぞ」と言われまして。僕は高卒で自動車販売のセールスをしていました。家でも作業着姿の父を見てきてカッコよく思えなかったし、第一相性も良くなかったし、イヤだと思いました。

—でも結局、やることにしたんですか。

今津さん:長くなるので経緯は割愛しますけど、最初に父と弟で始めて、僕は9ヶ月後に合流することになりました。高校を中退してフリーターのような生活をしていた弟は、父の独立話に、「オレ、専務でしょ!」だなんて、すぐに乗ってきまして(笑)。お袋が経理の、ザ・家族経営です。

—30年近く前のことですよね。やってみていかがでしたか。

今津さん:おもしろくないし、身が入らず、5年くらいは毎日辞めたいと思ってました。

—ご商売としては順調で?

今津さん:それが、売り上げ60万円、材料代は90万円という月もあるようなありさまで。

—そ、それは…。

今津さん:結婚したんですよ。現在の専務で、19歳くらいからつきあい始めた彼女でした。それを機に、このままではいけないと気持ちを切り替えて邁進するようになって、以降、大手との取引も始まるなどして、上向きになってきました。

—おぉ。お父さまや弟さんは?

今津さん:父は根っからの職人で、営業だとか経営だとかに向いている人ではありません。弟には、辞めてもらいました。お察しください。

—あ…、なるほど、そうですか。でもそこからは順調に。

今津さん:はい、途中までは。

今津さん

手渡された悪夢の要望書。そして14名が退職

—途中までは。

今津さん:2000年に僕が社長になりまして、新規の商品開発を行ったり、工場を拡張したり、有限会社を株式会社化したり、増資したり。社員も順調に増やしていっていたころ、後継者がいなくて困っている16名の会社の、M&Aの話が持ち込まれました。必ずしも条件の良い会社ではなかったのですが、非常に魅力的な大手企業との取引関係があった。それで、思い切って勝負をかけたんです。

—裏目に、出たんですか…?

今津さん:傘下にしたその会社の16人の社員から、あるとき“要望書”を渡されたんですよ。

—要望書?

今津さん:1〜2枚の書面かと思いますよね?それが、冊子状だったんですよ。で、中にはひたすら僕への不満が書き連ねてありました。チャラチャラして見えるという見た目のことから、経営のしかたまで、とにかく95%は、僕への不満と批判。愕然としましたし、参りました。

—ええぇ、なんでまた。

今津さん:見た目についてはですね、認めざるをえないところもありますね(笑)。実際「歌舞伎町から来たみたいだ」と言われるような風貌だったので。でも、給与は彼らが元いた会社より高く設定したし、うちのほうが経営的に安定していたのも明らかだったんです。聞けば前の会社のときから経営者への不信があって、経営側を敵視するような風土があったらしく…。いろんなかけ違いもあったんでしょうね。

—笑えないお話をされているのに、「歌舞伎町」に一番反応してしまいました。

今津さん:当時いたじゃないですか、ロン毛で、数珠みたいなブレスレットをした、まさにあぁいう。

—そ、それは、私も要望書に書いてしまうかもしれない。

今津さん:ですよね(笑)。でも事は、風貌を改めれば解決するような単純なものではなかったんです。最初はそれでも、せっかく仲間になった人たちだからとつなぎ止めようとしたんです。ところが、元々うちにいた人たちにまで負の空気が波及してきてしまって。

—うわぁ、一度そうなると、空気を変えるのってむずかしいですよね。

今津さん:はい。要望書を手渡されてからというもの、毎日、彼らに僕の一挙手一投足を見られている心境になって、つらかったです。そして結局、16人中14人が辞めていきました。実際にはさすがに毎日ではなかったはずが、感覚的には毎日、「社長、ちょっとお話が」と、退職を告げるために声を掛けられていた印象です。

—たまりませんね…。

今津さん:要望書を目にしたその日に、そのころまだうちのクライアント企業に所属していた、現在はうちの執行役員で、人材マネジメントも担ってくれている藤井のところに行ったんです。彼曰く、「来た瞬間、様子がおかしかった。今日で会社が終わりかと思うような顔をしていた」そうです。

いろんな製造業を見てきたが、当然ながらものづくりの種類いかんで、設備も工場の雰囲気も異なる。今回もまた、「知らない感じ」だった。

「同志」な感じを漂わせる、今津正彦社長、今津好専務、藤井智樹管理部部長。

新卒採用は、育成する側の成長をも促す投資

—本当に、大変でしたね。

今津さん:その後、藤井にうちに来てもらったのもそうですし、地元の経営者団体に入って学び直したりして、自分の気持ちも立て直していきました。そのときの反省から、経営理念を持つことと、それを理解してもらうこと、そうやって醸成される社風が大事だと考えるようになりました。いまも、自分がいい経営者だと褒められたいとは思っていません。でも、社員の人生は豊かであってほしいと心から願っています。

—10年前から、新卒採用に力を入れるようになったのだとか。

今津さん:はい。はえぬきを育てるという意味もありますが、一から育てるプロセスを踏むことで、先輩社員が育つという点も、非常に重要だと思っているんです。新卒から本当に戦力になってもらえるまで3年間は、教えることばかりです。それでも毎年一人は採用するのは、いまいる社員の成長を含めた、未来のための投資ととらえているからです。ですから、会社説明会でも、ものづくりの技術などを強調する以上に、理念や社風を理解してもらうことに重きを置いています。

—採用には苦戦している会社が多いですよね。

今津さん:うちもそうです。でも、採用は、ものをつくるのと同じくらい大切なので、全力です。とはいえそのために湯水のごとく割けるお金があるわけもなく、試行錯誤ですね。路線バスや、地元の大学の正門近くに広告を出したこともありましたが、思うような効果は得られませんでした。いまは新入社員の8割以上が大卒なので、大学との関係づくりが、やはり重要ですね。

—御社には奨学金の返済サポート制度があるんですよね。

今津さん:ほとんどの子が苦労しているから助けになりたいと、専務が言い出して設けた制度です。

—就職先として、魅力のひとつになるのではないですか。

今津さん:「うちにはこれがあるから大丈夫」というような、相手を引きつける決定打になる制度ってないと思うんですよね。うちも、育児や介護休暇制度は整えましたし、有休は基本みんな消化してるし、給与もできる限り増やしてきました。工場もきれいにしたりと、働きやすさには力を入れてきたほうだと思います。毎日毎日大量のCMを流して誘う転職サイトには内心ちょっと頭にきてますが、気軽に登録して転職できる時代、うちのような企業がどれだけ頑張っても、離れていってしまう人がいるのは事実です。

—確かに、転職へのハードルを下げてますよね。それ自体は悪い面ばかりではないのでしょうが、そもそも転職を促すことで成り立つビジネスですしね。

今津さん:そうなんですよ。求職者に対しても、人材を求める企業側に対しても、ミスマッチだろうが責任を持たなくていい立場でしょ。その割に、うちみたいな会社にとっては小さくない費用を求められる。スマホ一つで転職活動ができる仕組みが、特にコロナ禍でリモートが促進されたときに活況だったのは理解できなくはないですけどね。

みなさん揃いも揃って元気に挨拶してくださった。言わされている感じもなく明るく対応してくださり、こちらが面食らうほどだった。

リラックスムードの休憩タイム。打ち解けた関係性が見てとれた。

事業承継は2030年ごろ。ただし条件つきで

—広告の半分は転職関連じゃないかという勢いで投入されてくるのは、やっぱりいびつな感じはしますね。ところで御社は、どんな方に来てもらいたいとお考えですか。

今津さん:学校名や資格、スキルより、人としていい人、挨拶のできる人で、うちの考え方に共感してくれる人。見るのは人柄ですね。いまいる社員は、みんなすごい真面目ですよ。絶対にサボらない。結局人柄なんです。数字はあとからついてくる。

—そうですか。悪夢の要望書事件から、苦労して社内を立て直されたのですね。

今津さん:おかげさまで、社員に恵まれました。会社勤めは大変なことが多いと思うんです。でも会社は、病むところではない。病んでしまうようなことはしないでほしいと、働いてくれる人たちに対して、これだけは強く思っています。

—それは本当に、そうですね。そういうお考えの経営者が増えてほしいとも思います。まだお若いですけど、後継についてはお考えですか。

今津さん:3年半前に、長男が入ったんですよ。継いでくれと言ったことはなかったし、本人も希望してなかったんですけどね、結婚して子どもができて、最近になって心境の変化があったみたいです。いま34歳、入社したてのころは全然ダメだったのが、藤井にも「自覚が出てきてよくやっている」と認められるようになったので、彼が40歳になったら譲るつもりです。「そのとき、みんながついていけないようなら話は別だ」との条件つきですね。

—それは、ぜひ頑張ってもらいたいですね。スムーズに承継できたら、ご自身としては、その後は?

今津さん:昨年、夫婦で三日間、沖縄に行ったんですよ。旅行なんて社員旅行以外では長らく行くこともなかったんですが、沖縄が大好きになって、戻って来たいなと思いました。ずっとそれどころではなくて、自分たちのための時間というのも持てずにここまできたので、少しゆっくりできたらな、とは思っています。

3階建だが4階並みの高さがある社屋。高齢化の進む地域で、「近くの河川の氾濫など、万一の災害時にはここに避難してもらおうと」と今津社長。「どんなに利益を出そうと、地域に嫌われたら続けられない」。地域に歓迎される企業でありたいと力を込めた。

イチオシ アイ・エム・シーユナイテッドのじまんの人 藤井智樹さん

執行役員兼管理部部長の藤井さんの前職は、アイ・エム・シーユナイテッドのクライアントにあたる企業の技術部長でした。長年の取引先という関係で親しかった今津社長に請われて、2012年に入社。経営管理、人材マネジメント等を担当しています。社長と専務からの信頼が厚く、ご本人も、「信じて任せてくれる」ことを気概に感じながら力を尽くしてきたそうです。

今津社長がかなり苦しい時期に誘われて、力になりたいと思いました。当時からアイ・エム・シーユナイテッドには技術者が揃っていることを知っていましたし、業績も問題ありませんでした。ただ、経営にあたり、しっかりマネジメントができる、社長の右腕になる人が必要だろうとは感じていました。社長も「組織にしたい」と言っていて、当時から管理職でマネジメント業務を行っていた私に相談したんですね。私の所属先は規模が大きくて変えられない組織だったのに対し、ここならその意味でもやりがいがあると思い決意しました。入ってすぐ、課題を見極めるべく全員と面談して、「24時間365日、なんでも聞く」と個々のフォローも始めました。最初は社長の回し者と見なされて心を開いてもらえず、完全アウェーでしたね。でも、経営陣には言わないでと言われたら言いませんでしたし、社長や専務もそれをあれこれ言いませんでした。次第に本気が伝わり受け入れてもらえるようになりましたが、もう一度やれと言われても嫌ですね(笑)。キツかったです。いまは組織になってきたところ。業務改善にはずっと取り組んでいて、目下の目標は「残業ゼロ」です。

編集後記

「会社勤めは大変なことが多いと思うんです。でも会社は、病むところではない。病んでしまうようなことはしないでほしい」の言葉に、はっとさせられました。当たり前なのに、社会で当たり前には共有されず、むしろ「会社勤めは大変(だからときどき病む)」で終わってはいませんか。創業からここまでの道のりを思うと、お聞きした一部のエピソードから想像するだけでも、どっと疲れが出そうな(笑)一代記。ところどころで前述のような言葉を発する今津社長が、かつて歌舞伎町のホストさながらのチャラい見た目(と、ご本人がおっしゃってました!)だったと知ると、何やら感慨が倍増します。「オンリーワンでもナンバーワンでもないけれど いつまでも必要とされる存在を目指して」。こちらは社員の方が考案されたそうですが、同社のWebサイトで目が留まった、やはり印象的な言葉でした。(2024年3月取材)

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