キラリと光る会社
ゆいまーる沖縄

ゆいまーる沖縄株式会社

ゆいまーる沖縄イラストイメージ

相互の結びつきや助け合いを意味する、沖縄の美しい言葉を社名にしたゆいまーる沖縄は、「沖縄を自立させたい」という思いから、1988年に始まりました。創業者の玉城幹男氏は、集団就職先の東京で沖縄出身者に対する差別に直面したことをきっかけに、故郷について仲間と共に改めて学び、沖縄が自立するためになにが必要かを考えたそうです。出した答えが企業経営。どのような会社にすべきか、東南アジア各国を旅しながら思案して、琉球文化にこだわり、沖縄でつくられたモノを流通させることによって沖縄の自立を実現しようと志しました。その玉城氏が病に倒れ、遺志を継いだのは、ひょんなことからこの会社に就職した現社長です。
キラリと光る会社第8回は、ゆいまーる沖縄の鈴木修司社長にお話をお聞きしました。
ゆいまーる沖縄公式サイト

沖縄を自立させたいという思いが創業の原動力だった

—経営目的に、「琉球の自立を目指す」と記されていますね。

鈴木社長:はい。創業者が、会社を始めた理由でもあります。沖縄出身というと、今はむしろ憧れられることも多い時代になりましたが、当社の創業者・玉城の若かりしころは差別があったんですね。集団就職で上京した玉城は、沖縄出身だというだけで、アパートを借りられなかったり、居酒屋が立ち入り禁止だったりという、あからさまな差別を知ります。そうしたことに端を発し、同郷の仲間と集まって、沖縄はなぜこのような状況にあるのか、自分たちのアイデンティティとはなにかなどを語り合う中で、沖縄は自立しないとだめだ、ならば経済をなんとかしないと、と考えるようになったんですね。

—手段として企業経営を選んだ。

鈴木社長:そうです。思いありきの会社ですね。最初は、沖縄の食材を県外の沖縄料理店などに卸す会社でした。現在は、器やシーサーなどの工芸品がメインですが、理念や目的は変わっていません。

—では、その思いに応えられる人が、社員として集まっている会社といって良いのでしょうか。

鈴木社長:採用面接のときに、沖縄の歴史、文化、経済のこと、そして基地など沖縄が抱える諸問題までどのような思いや考えを持っているのかを尋ねるんです。本気で沖縄のために貢献したい、自己成長したいという思いを重視しています。なので、どんなに仕事のスキルが高くても、思いが足りない人は採用しません。就職は結婚のようなものだと思っていますから、思いが共有できないとむずかしいですよね。

—それはそうでしょうね。でも、企業として、特に基地問題のようなセンシティブなイシューに対してこだわりをお持ちだと、ややこしいこともありそうです。

鈴木社長:そうそう。でも、創業者の思いを継ぐこと以上に、沖縄に生きる自分たちの足下のことですから、萎縮している場合じゃないと思うんです。基地ではなくモノづくりを、破壊でなく創造を。特に過激な主張をしているわけではなく、純粋に沖縄を良くしていきたいという思いです。近年は地元新聞などでも積極的な発言をしています。基地のことは特に企業として発言することにさまざまな影響はあると思いますが、ものを言えない企業にはなりたくないですからね。

鈴木社長

「もの言う企業」の社長さん。ですが、意外なほどにいかめしい印象はなく、清々しい笑顔。

絵描き志望のバイト入社から社長に

—そんな鈴木社長は、“ないちゃー(本土の人)”でしたよね。

鈴木社長:はい、千葉出身です。

—いわゆる移住組、なんですよね。

鈴木社長:そうですが、私の場合、絵描きになりたくて、沖縄県立芸術大学への進学ありきでした。進学ありきなのに、2年連続受験に失敗したんです。浪人時代の、2度目の受験の合否が判明する前に、なぜか沖縄に来てしまっていたので(笑)、行きがかり上そのまま居残ることになりました。

—えええっ…。

鈴木社長:もう、なんでしょうね。家族の大反対を押し切って沖縄に出てきたので、後戻りができなくなりまして。たまたま、その頃住んでいたアパートの近くで求人の貼り紙を見つけたんです。それがゆいまーる沖縄でした。

—なんと!そうだったんですか。

鈴木社長:小さい頃から絵がうまいと言われ続けて、高校も美術コースに通っていました。絵描きになると信じて疑わずにきたのがひっくり返ったの。20歳で人生リセットになったわけです。暮らしてゆくためには働かなくてはいけませんが、どうせ沖縄に来たのだから沖縄にかかわることをしたいと漠然と思っていたときに求人を目にして、アルバイトで入りました。

—そうでしたか。アルバイトで。

鈴木社長:初めは事務仕事と荷物の箱詰めをやりました。やってみたら、自分はなんでもないことも楽しめるタイプだとわかりました。袋詰めのような単純作業を延々とやるのも、いかに効率を上げるかにチャレンジできて、苦になりませんでした。そのうち営業を任されるようになり、創業者に、「勉強しろ。社会人になってからこそ勉強が必要だ!」と言われて、ビジネス書を読むようになりました。最初に手にしたのは、コンビニのつくり方を業界の有名経営者が著した本でしたね。あのあとはいろんな本を読みました。正社員になってからは、商品開発や店舗の立ち上げと、与えられた仕事を一生懸命やるうちに、25歳で役員になりました。

—すごい展開ですね。

鈴木社長:振り返るとそうですね。それでも、ずっと絵を描いて生きてゆこうと思っていた人間ですから、心を決めるまで10年くらい悩んだんですよ。29歳のときに創業者が重病になり、30歳で共同で代表を引き継ぐことになって、いよいよ腹を据えました。

浦添市

地元浦添市の高台からの景色。このあと、空を横切るオスプレイを見た。

世界に誇る沖縄のモノづくり。その価値を高めるために

—創業者の玉城氏は、会社にとっても鈴木社長にとっても大きな存在だったのだと思うのですが、亡きあとの経営を手がけてみていかがでしたか。

鈴木社長:創業者には本当に多くの影響を受けました。まっすぐに突き進む、裏表のない人物でした。結果的に太く短く生きた人ですが、彼なくして今の会社はもちろん、私もありません。あとを継いで経営に乗り出すわけですが、想像していた以上に苦労しました。

—どこに最も苦労されましたか。

鈴木社長:工芸品の売り上げが7割だったのですが、ものは売れているのに、余裕がない。社員の給料を上げられない。モノづくりをしている職人さんたちは、さらに収入が低いんですよ。いいものをつくって、売っても売っても生活が苦しいって、これはなんなんだと。

—要するに、市場の売価が安すぎたということでしょうか。

鈴木社長:そうです。沖縄の工芸品は世界に通用するクオリティを持ちながら、お土産品に甘んじてきたんです。それが職人の技術に見合う工賃を支払えないような構造をつくっていたんですね。町の中心部のお土産屋さんで売っているシーサーなどは、ほとんど輸入物です。あちらのほうが利益率が高いんです。同列に語られるようでは、沖縄の伝統工芸が立ちゆかなくなってしまいます。代表になって2~3年の間、数字とにらめっこしながら悩んだ末に、Made in OKINAWAの価値を高めるための活動を始めることにしました。

—そこからオリジナルブランドの開発につながってゆくのですね。

鈴木社長:思いと数字の車輪は、同じサイズでないと進まないんです。きちんと利益を出すことが欠かせない。そのためにも、お土産物市場で戦うのではなく、見合った場所に出てゆけるブランドにしたい。取り組んでいるのは、つくり手も巻き込んだブランドづくりです。代表的なものに、「nife(ニーフェ)」があります。沖縄の言葉で「ありがとう」を意味する「にふぇーでーびる」をもとに名づけたブランドです。人と自然、ものに対する感謝の気持ちを込めました。本当の意味での上質な生活に取り入れてもらえるよう、つくり手と時間をかけて話し合いながら、大事に育てています。

nife(ニーフェ)

ゆいまーる沖縄の代表的ブランド、nife(ニーフェ)のアラベスクシリーズの皿。美しい藍色で描かれた、やわらかな唐草模様が印象的。

今の時代だからこそ、うちなーんちゅの精神性を

—ものを売ることを通じて、その背景にある沖縄の文化や精神性を伝えることをめざしていらっしゃるように感じられます。

鈴木社長:めざすところはまさにそうです。沖縄の根っこにある、自然、そして祖先を崇める精神を、沖縄の人たちの価値観を、発信してゆきたいと願っています。経済至上主義により人々が見失ってきたものが沖縄には残っていると思うからです。自分たちがつながりの中で生かされていると知ることは、代え難い豊かさにつながると信じています。私たちは、そういうことを伝えるために、きっかけとしての商品を売ってゆけるようになりたい。

—鈴木社長の思いを、亡き創業者の玉城さんもきっと応援しているでしょうね。

鈴木社長:そうでしょうかね。今も健在の玉城夫人は、うちなーんちゅ(沖縄の人)のこころを深く持ち続けていて、自然をよりどころにした生き方を体現している、素晴らしいロールモデルなんです。ですから、勉強会や研修に来てもらうなど、今も折に触れて関わってもらっています。教えられること、刺激を受けることがたくさんあります。偉大な夫妻ですね。

—本当ですね。若くしてバトンを受け取り、リーダーになった鈴木社長ですが、なにか縁のようなものに呼ばれて沖縄にいらしたのかもしれませんね。

鈴木社長:はい。僕もここで生きる者として、沖縄の素晴らしさを知る者として、創業者の思い、そして沖縄の思いを継承してゆきたいです。沖縄は、リゾートとしてもてはやされている部分があまりに大きい。もちろん、海をはじめとした自然はかけがえのない財産で、それを資源とする観光に支えられてはいます。ただ、その先にある奥深い価値観にも目を向けてもらいたい。同時に、地元沖縄もまた、内発的に盛り上がってゆく方向を探らないといけないと思います。本質的な価値観と向き合えば、僕らがなにと共に生きるべきなのか、答えが見えてくるのではないでしょうか。

末吉の御嶽

末吉の御嶽(うたき)。御嶽は沖縄土着の信仰における聖域で、地域で大切にされています。ゆいまーる沖縄でも、節目節目でここに訪れるそう。

鈴木社長

沖縄の伝統的な価値観について語り出すと、鈴木社長の言葉に熱が帯びてきた。

イチオシ ゆいまーる沖縄のじまんの人 営業部 部長 桃原晴樹さん
桃原さん

間もなく入社10年。ずっと営業担当で、その人柄から、社内外からの人望も厚いそう。扱う商品について、特にシーサーには非常に詳しく、「シーサー博士」の異名を持つとのウワサも聞こえてきました。

ゆいまーる沖縄には21歳で入社しました。その前に2年間、愛知県で働いていましたが、戻って地元沖縄に関わる仕事がしたかったんです。とはいえ、工芸品のことは知らずに入社して、最初はその良さも、実はさっぱりわかりませんでした(笑)。今は魅力を話し出したら止まらないくらいです!特に焼き物が好きですね。自分の生活に取り入れ、つくり手の思いに触れるにつれて、この素晴らしさを伝えたいと強く思うようになりました。焼き物は現場では、窯から「生まれてくる」と言われます。火をつけるときにお祈りをして、そして生まれてくるんです。職人さんひとり一人、また、そのときの温度、湿度によって表情が変わる。同じ窯からでも、ふたつとして同じものは生まれてきません。シーサーの場合は、つくり手とどこか顔が似ていて、そんなところも面白い。この仕事が好きです。沖縄の宝に気づくことができて、ゆいまーる沖縄に入って良かったです。

編集後記

ゆいまーる沖縄があるのは浦添市。取材を終え、市街地を見下ろす公園でしばし時間を過ごしていたとき、突然に迫りくる轟音に振り返ると、夕暮れ時の空にオスプレイが飛んできました。黒く重々しい飛行物は想像以上に近く感じられて、確かに恐怖を覚えました。直前に鈴木社長からお聞きしていたお話と相まって、なんとも言えない、やりきれないような気持ちになりました。
沖縄の素晴らしい手仕事を、キラキラした表情で“宝”と言った「じまんの人」桃原さんは、入社してすぐ、当時まったく良さのわからなかった焼き物の、まずは飯椀を買って使い始めたそうです。今の彼の願いは、地元沖縄の人が、ひとりでも多く、地元のこうした工芸品を使うようになること。かつて自分がそうだったように、目を向けない人が多いのだとか。沖縄の風土が生んだ、力のある工芸品。使えば必ず愛着を持てるようになり、生活を豊かにするのだと、語る言葉に熱意が溢れていました。桃原さん、私もそう思います。(2014年10月取材)

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